特養の看取り介護加算の算定要件のひとつに「看取り関する職員研修を行っていること」という規定がある。これは最低でも各年度に1回以上の実施が求められている。

当施設では新しい職員が入職する4月に必ずこの研修を実施している。「看取り介護研修」自体は年1回しか行わないということではなく複数回の研修を実施しているが、第1回目は必ず4月中に行って、新入職員にも実践理念や方法を知ってもらうことにしている。

そのこともあってか当施設の職員は「看取り介護」を施設サービスの一部として、ごく自然に受け入れており、看取り介護を行うことに対する疑問や不安はほとんど抱いていない。一番のテーマは看取り介護を行うか否かではなく、自分の家族が臨終場面を迎えるときに何を望み、何が必要かを考えるのと同じ視点で、看取り介護対象者にいかに安らかな最期の時間を過ごしてもらえるのかという方法論がテーマになるだけである。

そして今週が「看取り介護研修週間」となっている。なぜ週間かというと、全職員が必ず同じ内容の研修を受講して意思統一を図るために複数回同じ内容の研修を実施するからである。当然何日間かに分けて実施するのと同時に、夜の部と昼の部も両方機会を作っている。

そうなると外部講師にお願いするのは難しいので、基本的に4月の看取り研修は僕が講義を行うことにしている。場合によっては公開研修として、外部の施設関係者に参加案内をすることもある。(※その替り、4月以降に行う「看取り介護研修」は外部講師の話を聞く機会を出来るだけ設けている。)

今年は新しく家族向けの「看取り介護パンフレット」を作成したので、その内容説明も兼ねた研修とし、施設内研修を今週複数回行っている。

ということで今日の記事は、手を抜いて、今回その「看取り介護研修」で使用している資料を以下に転記して公開させてもらう。

(平成22年4月 看取り介護研修資料)

介護施設での看取り介護が、医療機関で死の時を迎えることと決定的に違うところは、治療の場で結果的に亡くなったり、最期の看取りの場所として日常の生活の場から離れてそこに移るのではなく、自分が暮らしてきた「介護施設」という生活の場が、そのまま「看取りの場」となるという特徴があるということです。職員も家族の一員と同じ視点で最期の瞬間まで心をこめて介護に努めましょう。

1.当施設における看取り介護3つのキーワード

1.寂しい看取りは嫌だ〜施設内孤独死を生まないこと。
2.看取り介護は死の援助ではなく、生き方の最終ステージの援助であること。
3.あきらめない介護〜最期までその人が望むことを実践する支援。制限は馬鹿でもできるが、その時できることを最大限に考えることは知恵のある者にしかできない。

2.看取り介護の理念

マザーテレサの言葉の実践
「人生の99%が不幸だとしても、最期の1%が幸せだとしたら、その人の人生は幸せなものに替わるでしょう」
看取り介護という形で利用者の臨終場面まで関わろうとする我々は、せめてその対象者が息を止める最期の瞬間については、本当に安らかな心で、その場を迎えてほしいと願うのは当然であり、それによってそれらの人々の人生に何らかの意味や影響が必ずあると信じて悪いはずがありません。

3.ADLからQOLそしてQODへ

QOD(Quality of death)とは、単にターミナルケアの方法論を問うものではなく、そこで暮らし、やがてそこで最期のときを迎えるまで、いかにその人が生命を持つ個人として尊重され、豊かな暮らしを送ることが出来、やがて安らかに死の瞬間を迎えることが出来るかという意味であり、我々がそこで豊かな暮らしを送ることが出来る支援のあり方と、最後の瞬間を看取り、送り出すまですべての過程を質の高いサービスとして構築することを意味する概念です。このことを意識した介護を常日頃から目指しましょう。

4. 終末期の判断と求められる対応について

看取り介護は医師が医学的、一般的知見から回復不能な終末期であると認めた方を対象にするもので、医師以外の者がこの判断はできませんが、今考えられている判断基準を他職種の方が知ることも重要なので、その考え方をまとめてみます。

一番大事なことは、単に「病状が重篤だから高齢者には治療が必要ない」と判断することがあってはいけないし「もう年だから」と年齢だけで終末期と決めてしまうことがあってはならないということです。高齢者の積極的な治療は無駄だといった価値観は徹底的に排除されたうえで、人間として安らかに最期を迎える状態とはどのような状態かという観点から「自然死」というものを考えていかねばなりません。

例えば「がん」の場合の終末期とは「治療効果が期待できなく余命がおおよそ6ヵ月にある時期」とある程度定義付けが可能で、これは医師により個人的判断に差が出る問題ではなく「一般的に認められている医学的知見」と考えてよいでしょう。しかし例えば脳梗塞など、特定の病気を繰り返している高齢者などの場合でも治療を試みてみないことには終末期とは判断できるはずがなく、その治療の試みを行って始めて医師の判断として「回復の見込みなし=終末期」とされるわけです。

問題は嚥下困難な方が経管栄養にしないで、そのまま死を迎える場合の判断ですが、ターミナルケアに関する研究で有名な京都保健会盛林診療所所長・三宅貴夫氏は次のように一定の判断基準を示しています。
【がん以外の疾患や老化に伴う場合「終末期とは、積極的な医療がないと生命の維持が不可能であり、またその医療を必要としなくなる状態には回復する見込みがない状態の時期」と考えられます。
回復が期待できない嚥下困難か不可能な状態の時期であっても、胃瘻による経管栄養を行えば延命は可能ですが、高齢者自らが自分の生命を維持できなくなった状態にあるという意味で終末期とみてよいと考えます。】

このように氏は「回復が期待できない嚥下困難か不可能な状態」については、経管栄養を行えば延命は可能であっても本人(あるいは本人を代弁する家族の意思も含めて考えてよいだろう)の同意がある場合に、終末期として経管栄養を行わずに結果的に経管栄養を行うケースより生命を維持する期間が短くなったとしても、それは終末期援助の在り方として認められるべきであるという判断を示しています。それはあくまで人間として安らかに、自分らしい臨終の時を過ごす選択としての「自然死」の選択です。

旅立つ人々が最期の瞬間に求めているものは、冷たい聴診器や注射針ではなく、関係深い人々の暖かな手のぬくもりであるということから臨終に向かいあう職員の役割を考えることが大事でしょう。それとともに介護施設では家族が参加できる場面がたくさんできるので、家族が看取り介護に共に取り組むことを勧めるとともに、その際の不安を解消するためパンフレットを作りました。職員もこのパンフレット内容を理解し、家族に説明できるようにしましょう。

介護・福祉情報掲示板(表板)

(↓1日1回プチッと押してね。よろしくお願いします。)
福祉・介護人気blogランキングへ
(↑アドレスをクリックすれば、このブログの現在のランキングがわかります。)