消費税の引き上げ議論がタブーではなくなりつつある。
国民の意識の中にも、この国のごく近い将来を見据えた時に、消費税は引き上げざるを得ないだろうというある種のあきらめをともなった意識が芽生え始めている。それはやはり少子高齢化社会の進行で、実際に高齢者の社会に占める割合が増えているということを身近な地域社会の実感として感じ、このままの税制度であれば、近い将来に年金を含む社会保障費が足りなくなり、安心して高齢期を過ごせないのではないかという自らの将来に対する不安が現実味を帯びてきているからであろう。
しかし消費税引き上げという総論に賛成する人が増えているとしても、その税率をはじめとした各論部分では様々な意見があるだろう。例えばこのまま出生率が増加しなければ消費税率は最低でも20%にしなければならないという研究結果が公表されたりしているが、現時点で2割の消費税に賛成する人はいないだろう。
そうなると総論賛成、各論反対がうずまく状況で、税率が実際に引き上げられるとき、10%を基準に考えるとした場合を想定してみても、そのときには「いきなり倍では国民生活が持たない」という声が強まるだろう。そうなると7%なら良いのか?いや、それでは端数が出るから財布の中が1円玉であふれるので端数の出ない8%がよい、等という議論になりかねず、それでは財政議論ではなくなってしまう。ここが難しいところだ。
ところで以前にも論じたが、消費税というのは決して公平な税負担ではない。国民全部が等しい負担割合であるといっても、資産のある人も、収入のない子供も、同じ割合で負担するのだから、例えば1万円という金額に変わりがなくとも、その価値は個々の状況で異なるという部分への配慮がない税制度だからである。極端な例でいえば、金持ちは物を買えても、貧乏人は買うのを我慢しろ、ということにもなりかねず、税率負担が重くなればなるほど、この格差は拡大せざるを得ない。
経済格差がある実態は、富める人と貧する人が社会に混在するという意味で、資本主義社会であればそれは当り前であるが、しかし経済活動を通じて得た富は、もともと社会の「財」であり、近代国家における政府の責任は、この財をきちんと再分配して、貧する人々も社会通念上の最低限度の文化的生活を営む権利を有するものとして、その生活水準を守る施策をとる責任を持つものである。現にわが国の憲法はその権利を保障している。そういう意味で消費税という間接税に財源を求める手当だけではなく、直接税の累進課税制度はきちんと社会の「財」の再分配として機能しているのかという検証と見直しが不可欠である。
介護保険制度に絞って、消費税引き上げ論との関係を考えるならば、現行の保険制度の財源構造のままでは消費税を引き上げてもほとんど意味はなく、給付費の増加に対しては介護保険料負担額を上げる以外に財源を補う方法はない。なぜならその給付費財源は公費と保険料が1:1なのだから、給付費が増え、公費手当が増えても、それは同時に社会保険料を財源とする支出も同じ比率で増えざるを得ないからだ。
しかし地域によって、この保険料負担はそろそろ限界に達している。そうなれば当然のことながら、消費税率引き上げと同列に、介護保険における現行50%の公費負担率の見直しがされなければならない。当然その際には、公費負担率だけではなく、現行のサービス利用に際しての利用者1割負担という「自己負担率」も同時に議論されていくことになるだろう。
税制改正、消費税引き上げの大前提は、国費の使われ方の検証、無駄な公費支出をなくす、ということであるが、歴史から我々が学んできたことは、公明正大を目指しても、決して100%の完全なる無駄のない財政運営ということは実現したことがなく、無駄な国費の支出も無くなったことがないということであり、官僚の全てが清廉潔白で完全な人格を持つわけではないということである。そうであればどこかで最大公約数を見つけながら新しい社会システムへの変換を進める必要があるもので、公費支出問題が完全にクリアされないから税負担議論が進められないということではないという理解は必要だろう。
こうした財源論から国民負担の増加問題が生ずると、社会保障費は国家のお荷物のように考える人もいるようだが、しかし例えば国民皆保険という制度は、我が国の国民の健康保障に果たした役割は大きく、それは結果的に医療機関に受診できない人を作らなかったことに繋がっており、そのことが健康な労働力をたくさん生みだし、同時に大量の消費活動を生みだしてきたという意味もある。高度経済成長を支えたものが国民皆保険制度であったという側面もあるのだ。
そうなると老後の福祉・介護不安を生まない社会システムも同様に効果を生む可能性があり、例えば老後の不安がない社会では、現役世代に老後に備えた過度の貯蓄意欲は必要なくなり、経済活動に回るお金が増え経済は活性化するが、社会保障が貧弱で老後の不安がぬぐえなければまったく逆の現象によって経済活動も停滞するだろう。
もっと積極的な意味を福祉・介護サービスに求めるとすれば、今後30年以上は安定して顧客確保が見込まれる領域である介護サービスは、一面大量雇用の場であるのだから、そこに公費負担を増やしても、それは今後ますます必要となる介護サービス従事者によって経済活動を活性化させる重要な要素になり得るという側面がある。介護従事者を労働力供給源及び大消費層とみる施策も経済政策として有効だという意味である。
斜陽産業から、必要とされる介護の職種に人が集まる基盤を公費によって整備することにより、雇用・経済・介護問題が一体的に手当てされるという側面にもっと注目してもよいのではないだろうか。
こうした部分での「財」の再分配政策はあってよいと思うのであるが、実際の政治家からそうした声は挙がって来ない。どうしたもんだろう。
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国民の意識の中にも、この国のごく近い将来を見据えた時に、消費税は引き上げざるを得ないだろうというある種のあきらめをともなった意識が芽生え始めている。それはやはり少子高齢化社会の進行で、実際に高齢者の社会に占める割合が増えているということを身近な地域社会の実感として感じ、このままの税制度であれば、近い将来に年金を含む社会保障費が足りなくなり、安心して高齢期を過ごせないのではないかという自らの将来に対する不安が現実味を帯びてきているからであろう。
しかし消費税引き上げという総論に賛成する人が増えているとしても、その税率をはじめとした各論部分では様々な意見があるだろう。例えばこのまま出生率が増加しなければ消費税率は最低でも20%にしなければならないという研究結果が公表されたりしているが、現時点で2割の消費税に賛成する人はいないだろう。
そうなると総論賛成、各論反対がうずまく状況で、税率が実際に引き上げられるとき、10%を基準に考えるとした場合を想定してみても、そのときには「いきなり倍では国民生活が持たない」という声が強まるだろう。そうなると7%なら良いのか?いや、それでは端数が出るから財布の中が1円玉であふれるので端数の出ない8%がよい、等という議論になりかねず、それでは財政議論ではなくなってしまう。ここが難しいところだ。
ところで以前にも論じたが、消費税というのは決して公平な税負担ではない。国民全部が等しい負担割合であるといっても、資産のある人も、収入のない子供も、同じ割合で負担するのだから、例えば1万円という金額に変わりがなくとも、その価値は個々の状況で異なるという部分への配慮がない税制度だからである。極端な例でいえば、金持ちは物を買えても、貧乏人は買うのを我慢しろ、ということにもなりかねず、税率負担が重くなればなるほど、この格差は拡大せざるを得ない。
経済格差がある実態は、富める人と貧する人が社会に混在するという意味で、資本主義社会であればそれは当り前であるが、しかし経済活動を通じて得た富は、もともと社会の「財」であり、近代国家における政府の責任は、この財をきちんと再分配して、貧する人々も社会通念上の最低限度の文化的生活を営む権利を有するものとして、その生活水準を守る施策をとる責任を持つものである。現にわが国の憲法はその権利を保障している。そういう意味で消費税という間接税に財源を求める手当だけではなく、直接税の累進課税制度はきちんと社会の「財」の再分配として機能しているのかという検証と見直しが不可欠である。
介護保険制度に絞って、消費税引き上げ論との関係を考えるならば、現行の保険制度の財源構造のままでは消費税を引き上げてもほとんど意味はなく、給付費の増加に対しては介護保険料負担額を上げる以外に財源を補う方法はない。なぜならその給付費財源は公費と保険料が1:1なのだから、給付費が増え、公費手当が増えても、それは同時に社会保険料を財源とする支出も同じ比率で増えざるを得ないからだ。
しかし地域によって、この保険料負担はそろそろ限界に達している。そうなれば当然のことながら、消費税率引き上げと同列に、介護保険における現行50%の公費負担率の見直しがされなければならない。当然その際には、公費負担率だけではなく、現行のサービス利用に際しての利用者1割負担という「自己負担率」も同時に議論されていくことになるだろう。
税制改正、消費税引き上げの大前提は、国費の使われ方の検証、無駄な公費支出をなくす、ということであるが、歴史から我々が学んできたことは、公明正大を目指しても、決して100%の完全なる無駄のない財政運営ということは実現したことがなく、無駄な国費の支出も無くなったことがないということであり、官僚の全てが清廉潔白で完全な人格を持つわけではないということである。そうであればどこかで最大公約数を見つけながら新しい社会システムへの変換を進める必要があるもので、公費支出問題が完全にクリアされないから税負担議論が進められないということではないという理解は必要だろう。
こうした財源論から国民負担の増加問題が生ずると、社会保障費は国家のお荷物のように考える人もいるようだが、しかし例えば国民皆保険という制度は、我が国の国民の健康保障に果たした役割は大きく、それは結果的に医療機関に受診できない人を作らなかったことに繋がっており、そのことが健康な労働力をたくさん生みだし、同時に大量の消費活動を生みだしてきたという意味もある。高度経済成長を支えたものが国民皆保険制度であったという側面もあるのだ。
そうなると老後の福祉・介護不安を生まない社会システムも同様に効果を生む可能性があり、例えば老後の不安がない社会では、現役世代に老後に備えた過度の貯蓄意欲は必要なくなり、経済活動に回るお金が増え経済は活性化するが、社会保障が貧弱で老後の不安がぬぐえなければまったく逆の現象によって経済活動も停滞するだろう。
もっと積極的な意味を福祉・介護サービスに求めるとすれば、今後30年以上は安定して顧客確保が見込まれる領域である介護サービスは、一面大量雇用の場であるのだから、そこに公費負担を増やしても、それは今後ますます必要となる介護サービス従事者によって経済活動を活性化させる重要な要素になり得るという側面がある。介護従事者を労働力供給源及び大消費層とみる施策も経済政策として有効だという意味である。
斜陽産業から、必要とされる介護の職種に人が集まる基盤を公費によって整備することにより、雇用・経済・介護問題が一体的に手当てされるという側面にもっと注目してもよいのではないだろうか。
こうした部分での「財」の再分配政策はあってよいと思うのであるが、実際の政治家からそうした声は挙がって来ない。どうしたもんだろう。
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