「虚心」とは「心に何のこだわりも持たずに、素直であること。」という意味である。

似たような言葉で「無心」という言葉あるが、こちらは「無邪気であること」「心の動きが停止していること」という意味であり、社会福祉援助者が利用者に対する心構えを考える際に使う言葉としては「虚心」の方がふさわしいのではないかと思う。

しかし我々が相談援助場面や介護サービスの現場で、常に利用者に対して「虚心」で対応できるかと言えば、それは不可能である。神ならざる身であるがゆえに、社会福祉援助者といえども様々な感情を持って相対することは仕方のないことなのだ。

しかしだからと言って、そうした感情をコントロールできずに、自分の感情の赴くままに利用者にそれをぶつけてしまうのでは、これは専門援助でも支援行為でも無くなってしまう。ここをきちんとコントロールすることがプロフェッショナルとしての専門技術であるし、そのために我々は自らが持つ感情のありようを自覚して専門援助に関わるために「自己覚知」に努めるわけである。
(参照:面接の技法2〜自己覚知について

つまり社会福祉援助者が利用者やその家族に対して真摯にかかわることは必要であるが、だからといってすべての場面でそれらの人々に否定的な感情を持たないという保障はないし、それは不可能である。よって否定的感情を持ってしまった援助者が、そのこと自体で自らを責めたり、人から非難されるべきではない。そうした感情を一切持つなということであれば、それは神もしくはロボットにしか求めることが出来ないからである。

社会福祉援助者であろうと人間である以上、価値観は様々で、それに基づいた様々な感情を持つことは当然であり、否定的な感情もその一部である。社会福祉援助者だからといって、全ての人間を好きになることはできない。合う・合わないという部分で、どうしても否定的感情を持ってしまう人に相対することだってあるのだ。

しかし専門家としてそうした感情を、どういう場面で持ちやすいかということを自ら自覚・意識して援助関係に影響が出ないように自らの感情をもコントロールしつつ援助に当たるというのが専門的態度であり、このことを「自己覚知」と呼ぶものである。日々の生活の中でも、このことを自覚できる訓練を意識することで、より的確な自己覚知に繋がるものである。

自分自身のことは自分が一番よく知っているというのは、ある意味大きな誤解で、他人からしか見えない自身の欠点や弱点を持っているのが人間である。しかしだからと言って自己覚知が誰かに替って「してもらえるか?」といえば、それはそうではない。自らのことを自らが知るということ自体は、誰に替ってもらうことができないものである。そして覚知したという意識を持つことも自身にしかできないことである。ただそれが正しい自己覚知であるかということについては、他者の評価や第3者の声に耳を傾けながら自らが再評価していくという鍛錬が必要だろう。

そういう意味で社会福祉援助者というのは、常に他人の目に届かないところで、孤独な精神作業を繰り返して行かねばならない。このことはある意味、この職業を持つ者の宿命ではあるが、その向こう側には「豊かな社会の実現」に向かうという意味がある。そうであるがゆえに様々な人々の生活課題を解決するという方法によって「幸福な暮らしを実現する」ために関わることができるということに、自分なりの人間として「この世に生きること」の意味を見い出そうとする自己実現動機が必要なんだろうと思う。

このように論理的に考えなくとも、支援過程で幸福感を感ずることができる人々は、この職業に最も向いている人だろうし、社会福祉援助に関わりながら、そのことに悩み迷っている人に対しては「その人にとっての自己実現」の意味を見つける手助けをすることも必要なことだろうと思う。

人間社会で「支えあう」ということは、そういうことも含めたことなのであろうし、それができるのは「人としてこの世に生かされている」我々人間だけである。

神様は我々に、そういう機会や権利を与えてくれているんだと思いながら、今自分が立っているであろうステージの上で全力を出しながら走り続けたいと思う。

介護・福祉情報掲示板(表板)

(↓1日1回プチッと押してね。よろしくお願いします。)
人気ブログランキングへ

にほんブログ村 介護ブログへ


(↑上のそれぞれのアドレスをクリックすれば、このブログの現在のランキングがわかります。)