認知症の方々に対するケアは難しいのか?と問われたとすれば、答えはYES・NOどちらともいえる。

ケアが難しいというのは、YESであるが、それが認知症ケアに限って言うとすればNOという意味である。

つまり他者支援というのは、何の知識もない状態で行っても限界があり、かつ極めて個別な領域である「個人の生活」というものに関わるのだから、同じ方法で同じ答えが引き出せるわけではなく、常に答えに繋がる「関わり」を新たに創造していかねばならないという点では難しいと言えるのである。しかしそれは認知症の方々に対するケアに限った問題ではなく、介護サービス全般に言えることである。

しかし人間関係全般に言えることだが、人との関係づくりは難しいことではあっても、適切良好な人間関係が作られている当事者間で、人間関係をその時々でどうしようということは問題にはならず、何も意識しなくとも、ごく自然な関係で良好な付き合いが継続できるものだ。そういう場合に人間関係は難しいなんてことも考える余地さえない。そこではお互いの波長合わせとしての「心の配り合い」「相互に思いやること」が意識しなくても、ごく自然に行われているのではないかと思う。

我々の実生活での人間関係の多くは「人間関係をどのように良好にしようか」と考えるまでもなく、自然に成立するものであり、他人と接するたびに「人間関係をどう作るか」と常に考え続けている人はいないだろう。しかし職場や特定の目的集団で、他人同士が一定時間を濃密な接点を持って過ごす場においては、様々な人と波長を合わせるための「意識した気配り」が必要である。

援助関係も人の「心配り」を無視した本能だけでの付き合いには限界があるということである。

しかしそうした関係の場であっても、我々社会福祉援助者と利用者の関係においても、ごく自然な付き合いができる良好な関係が作られれば、そこでは自然に適切な援助関係がさほど意識をせずとも続けられる可能性が高い。ただここまでの過程は難しいところだ。その努力は利用者の側にではなく、社会福祉援助者に多く求められるのは当然であろう。

ところで最近、認知症研修は、講師がレクチャーするだけではなく、寸劇で認知症の支援方法を具体的に「見せる」研修も多くなっている。これはサポーター養成研修を様々な対象者向けに行う過程で生まれた方法論を取り入れたものだろう。

その中で認知症高齢者に対する不適切な対応事例として演じられている行為は
※認知症の人の頭越しに先輩スタッフが新人に指示をする
※認知症の人の名前に「ちゃん」を付けて呼ぶ
※どこへ連れて行くのか本人に告げず、急に車いすを動かす

と言った内容である。しかしこの内容を読んで何か気がつかないだろうか?

これらの行為は、何も認知症の方々だけに限って「行っては不適切」な行為ではなく、全ての人が困惑する不適切行為である。例えば我々自身に置き換えて考えても、買い物に行って店員に問いかけているのに、自分の存在が無視されて、店員同士で業務連絡の会話をしていたりすれば不快になるし、年下のさほど親しいと感じていない人から「ちゃん」づけで呼ばれれば「コノヤロー」と思うし、車椅子に腰かけていたときに何の前触れもなく、車椅子を動かされたら、ドキッとびっくりするし、どこに連れて行かれるのか不安になる。

つまりこれらの行為は、自分に置き換えても「そうされて不快な行為」であり、ごく常識的に「やってはいけない」と分かる行為なのである。

そういう意味では、まず介護の基本は認知症であるとか、身体の不自由があるとかに関わらず、基本的に自分に置き換えて嫌な行為をしてはいけないということなのである。専門性の前に、常識が求められる問題なのである。

認知症の方が混乱せずに、安心して「暮らし」を送ることができるためには、周囲の人々が認知症という「何らかの病気の症状で生活に支障が出る状態」がなぜ起きるか、その特徴や生活の支障となる不自由さとは何かということを理解して、受容的に関わることが大事だし、介護の専門家なら、そのことを介護の基礎理論と結びつけながら専門知識と援助技術として持っておかねばならない。しかしそれはあくまでも介護の基本に上乗せして考えるべき問題である。

よって基本となる部分が不安定なら、そのような専門的なケアの理屈を積み上げても足元がぐらついて安定したサービスは提供できない。だから足元をしっかり固めるケアサービスの基本作りが必要なのであり、そのためにはごく当たり前に、自分が他人から「されて嫌なこと」は最低限しない、という考え方が必要である。

認知症の人は「何も分からず、問題が多い。」「(健常者と)隔たりがある。」などといった認識は間違っている。認知症の人にも感情はあるし、それはそれらの人々にとって極めて正常な感情である。短期記憶が全く保持できない人にとって、自分の大事なお金をしまいこんだ場所を忘れてしまって「みつけられなくなる」としても、しまいこんだ記憶自体がないのだから、大事なものが自然になくなるわけがなく、誰かが「盗った」と思う。そしてそのなくなった場所が自分の部屋なら、そこに入ってくるのは自分と家族しかいないわけだから、家族が盗ったと思うし、特に部屋に出入りする回数が多いのは、自分の世話をしてくれる主介護者であるのだから、主介護者である嫁などを「泥棒呼ばわりする」という行為は、認知症の高齢者自身の中では極めて理屈の通った考え方であるのだ。

だから認知症の方々の感情を無視して、認知症ではない人々と全く違う方法論で関わろうとすることは間違いであり、それは専門的ケアではない。認知症の専門的ケアとは、認知症の方々も普通の人と同じ感情を持つ一人の人間として、尊厳やプライドを守りながら、それに加えて「認知症という症状による不便や不安」に思いを寄せて、その状態を受け止め、理解的に関わり、認知症の人と共に歩む中で、それらの人々の気持ちを介護者が代弁して、実現できる豊かな暮らしを「共に考える」ことである。

家族の顔が分からなくなっても、嫌いな看護師や介護職員は「わかる」のである。認知症の方々にとって我々が「嫌な奴」にならないために何が必要かを問い続ける関わりでなければならない。

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