我が国の高齢者福祉対策は1963年に制定された「老人福祉法」に基づいて行われ、老人保健医療対策も同じく「老人福祉法」に基づいて行われてきた。その中で1973年から高齢者の医療費を公費負担する「老人医療費支給制度」が発足し、70歳以上の一定所得以下の高齢者医療費の無料化が実現した。これにより高齢者の受診率が大幅にアップした。

しかしこの時期オイルショックにより実質経済成長率が戦後初のマイナスとなり、健康保険料収入は大幅に落ち込んだ。これにより高齢者の加入率が高い国民健康保険財政は急激に悪化した。

このような情勢下で、旧厚生省は1976年から省内に「老人保健医療対策室」を設置し、高齢者医療の患者負担を復活させようとしたが、当時の三木内閣、福田内閣では世論の反発を恐れ選挙対策としの戦略上の見地から高齢者医療費の有償化は見送られ続けた。

1980年、行政管理庁が高齢者の過剰な多受診傾向を監査結果として示し「老人医療費支給制度」の早期見直し勧告を出すことにより潮目が変わった。そして1983年、老人保健法が施行されることにより我が国の老人保健医療対策は、老人福祉法から離れ同法に移行し「老人医療費支給制度」も廃止された。

1986年には国保財政の一段の悪化を背景に、老人保健法改正議論が大きく取り上げられ、高齢者対策企画推進報告として
1.自立自助と支援システムの構築
2.社会の活力の維持
3.地域における施策の体系化と家族への支援システム強化
4.公平と公正の確保
5.民間活力の導入

以上の5つの基本原則が示された。これをみると、このころから介護保険制度に繋がる基本原則の考え方が萌芽しているといえる。そしてそれは1988年の「高齢社会の福祉ビジョン」の国会提出へと繋がり、2000年度末までホームヘルパーを50.000人、ショートステイを50.000床、デイサービスセンターを10.000箇所、特養と老健を500.000床増やすという在宅サービスと施設サービスの緊急整備目標が示される流れに繋がっている。(1989年高齢者保健福祉推進10ヵ年戦略:ゴールドプラン)

1993年厚生省内に「高齢者介護問題に関する省内検討プロジェクトチーム」が設置され1994年には「21世紀福祉ビジョン」を示し、新ゴールドプラン策定と新介護システムの構築が提言された。この背景には厚生官僚の中に「租税・社会保障負担率」(対国民所得比)は当時35%位であったが、このまま何の対策もとらねば、これが50%を超えることは時間の問題で、そうなればヨーロッパ先進国のように先進諸国病に取りつかれ社会の活力を失うという危機感があった。つまりサービスは増やすが、その利用については「自己責任」原則を導入し、国民に新たな負担を求めざるを得ない、という考え方が根底にあったものである。

そしてこの「新介護システムの構築」提言がきっかけで、1995年2月老人保健福祉審議会において「新介護システムの審議」が開始され、同年7月「介護保険制度の創設」が勧告された。(政治的背景をみると、自・社・さ連立政権における社会党の村山富市が首相であった。)

この最終報告が1996年(この年1月11日、村山首相退陣、自民党総裁の橋本龍太郎氏が首相就任)に出され、介護保険制度案大綱が6月17日に諮問・答申された。それにより
1.関係者の意見に基づき介護保険制度要綱案を基本とする
2.懸案事項について解決を図り必要な法案作成作業を行う
3.次期国会に法案を提出する

という与党合意事項が示され、同年6月25日に「与党介護保険制度の創設に関するワーキングチーム」が設置された。その後、臨時国会への「介護保険関連3法」法案提出、2回の継続審議を経て・1997年末に審議・可決成立へと繋がっていったわけである。

法案成立に至る過程では、与党内でも足並みがそろわず、故・梶山静六議員をはじめとした自民党の有力代議士が制度創設に異論を唱えるなど、水・木の記事に書いたような様々な紆余曲折があった。しかし介護保険制度の創設議論の当時の政権は「自・社・さ連立与党」であったことが法案成立には大きく影響した。

どちらかと言えば農村部を選挙基盤にしている代議士が多かった自民党が、国民の新たな負担が伴う介護保険制度には消極的で、介護負担に対しては現金給付によって支持を広げようとしたことに対し、公的介護保険制度の創設議論が盛んになった当時の連立政権が社会党の村山内閣であったことにより、同党の支持基盤が自治労を中心にしたサラリーマン層であり、共働き世帯の支援策として「介護の社会化」が支持されたことと、その後、橋本内閣に変わって法案が国会提出された際の国会審議の過程においては、連立政権の枠組みが変わり野党として誕生した民主党の支持基盤もサラリーマン層であり、さらに同党の有力代議士である菅直人衆議院議員が、与党時代には、第1次橋本内閣の厚生大臣として同法立法化に積極的であったことなどから、この法案成立に協力しやすかった、という背景があることは先日の記事にも書いたとおりである。

さらにいえば、財政事情は何らかの形で新たな国民負担を求めざるを得ず、既に3%〜5%に引き上げが決まっていた消費税の税率再アップは国民感情を逆なし、政権への支持を失いかねず、別な形でのソフトランディングの方法を模索する中で「社会保険方式」「一定年齢以上の強制加入方式」という形の「静かな国民負担」が考えられた結果である。

どちらにしても自民党の一党支配時代には旧態勢力として厚生省に深く根をおろしてきた「厚生族議員」の力が、政界再編と連立政権下で衰えて行った過程で、政権与党〜野党に横断的に戦略的なメリットがあった新制度創設議論と相まった。これによって厚生官僚の模索する新たな介護システムとしての制度が日の目を見る間隙が生まれていたということが大きいであろう。

自民単独政権下で族議員が跳梁跋扈していた状況であれば、この制度は議論段階でつぶされていたであろう。

なお旧大蔵省(現財務省)は、介護保険制度について税方式を主張していた。これに対して厚生省は「介護報酬による収入の6〜8割は人件費として支出されるのだから、経済状況によって歳入が大きく左右される税によらず、安定した財源として保険料方式が望ましい」と対峙した。

この背景には税方式とすれば一般会計となり、大蔵省が財源を持つことに変わりはなく、大蔵省主導により財政状況で常に介護保険財源が削減対象になり、厚生省の所管が及びがたくなるのに対して、保険料方式の場合は、大蔵省の厳しい査定を受ける一般会計ではなく、特別会計に計上されるので、その場合、厚生省として独自財源となり省の裁量権を大きく確保することになることが主たる理由であったろうことは想像に難くない。そして決して力の強くない厚生省の主張が、巨大権力を持つ大蔵省の主張を押しのけて通った理由は、税という形の負担を増やせない政治事情があったということで、そのことは前述したとおりである。

つまり結果として言えば、厚生省は介護保険特別会計という独自の財源をこれにより確保することになるわけである。

記事の本旨とはいささか外れるが、こうした各省の独自財源となっている特別会計に、政治力でどこまで切り込めるかが、グローバルな視点からの政府の財源運営には必要であり、現政権が来年度以降に特別会計へ切り込むことができるのか、その対応と結果が注目されるだろう。

介護・福祉情報掲示板(表板)