(昨日からの続き)
6月23日、読売新聞の世論調査で83%の国民が介護保険制度の導入に賛成と高い支持が集められた。しかしこの時期、国民には介護保険制度が強制加入の掛け捨て保険であり、40歳以上の国民から「介護保険料」を税金とは別に強制徴収するなどの情報は十分に伝えられておらず、調査に回答した国民は、単に新たな介護サービスの制度が創設される、という片肺情報により、新制度の内容をよく理解しないまま賛成した傾向が強い。
※なお蛇足であるが、この時期、ヘルパー講習などの場でmasaは「税金とは別に強制的に保険料という形での国民負担があることを分かっているんですか?それらを含めて、新制度のすべてがYESなんですか?」と疑念を呈していた。

7月3日、介護保険制度の推進の旗振り役として厚生労働省保健局長の岡光序冶が事務次官に就任。厚生省内には「岡光ならやるだろう。手腕を発揮して介護保険制度はものになる」という空気が生まれた。まさに颯爽とエース登場という雰囲気であった。

7月13日、与党公的介護保険制度創設ワーキングチームの第1回地方公聴会。橋本首相は、社民党に沖縄米軍基地問題でも譲歩協力を得ようと、介護保険法案の秋の臨時国会への法案提出に前向きの姿勢を示したが、与党内には自民党を中心にした根強い反対勢力があり、その溝は大きかった。

8月9日、全国町村会は、都道府県単位での65歳以上保険料の統一化、保険料未納分の国費補てん、家族介護への現金給付を骨子とした「公的介護保険制度に関する要望」を発表。この時期以前から町村会は制度反対の方向を条件闘争へと転換している。さらに経団連も事業主負担の在り方に異議を示しながらも、制度創設自体には反対しないという姿勢を示していた。

9月6日、将来の老後に不安を持った50代の人々が中心となって「介護の社会化を進める1万人委員会」発足。世論は介護保険制度創設に向かい、全国市長会や全国町村会でも制度反対より、財源手当てを見据えた議論に向かいつつあった。

9月16日、与党ワーキングチーム(座長・山崎拓自民党政調会長)は、在宅と施設のサービスを同時実施する座長試案をまとめた。

9月18日、在宅と施設の段階実施案であった厚生労働省は、岡光次官が橋本首相に「与党案の同時実施案に沿って政府案を出したい」と報告。翌19日、政府与党首脳連絡会議で介護保険法案の国会早期提出で合意された。
法案提出に反対論が強かった自民党も、小選挙区制の導入を控え、市町村長の影響力が強まることを無視できず、さらに選挙後の連立体制を考えれば、制度導入に積極的だった社民・さきがけ・民主党との深刻な対立は避けたく、介護問題への積極姿勢を示さざるを得なかった。

11月5日、介護保険法案全容が明らかになる。ここでは市町村負担に配慮して市町村関連事務費の1/2を国負担とし、都道府県の関与を拡大し、実施時期を2000年4月から在宅・施設のサービスの同時開始と当初案より先延ばしし、保険料も同年4月から徴収とした。

選挙を控え、自民党内では「法案をつぶしたら選挙で批判される」派と、「負担の話になれば票にならない」とする派の対立で混乱し、一方、社民・さきがけ両党も、民主党旗揚げに伴う離党問題を抱え「介護の議論どころではない」という空気が生まれ、この間隙をついて厚生省官僚主導の法案創りが進んだ。

11月7日、内閣改造、第2次橋本内閣発足。厚生大臣は菅から自民党の小泉純一郎へと引き継がれる。
(菅は後に民主党共同代表として野に下る。)

11月16日、岡光次官の関与した「彩福祉会汚職事件」が明るみになり、同次官は小泉純一郎厚相に辞表提出。この事件は彩福祉会が運営する特別養護老人ホームの建設補助金をめぐって、不正な水まし請求が行われ、建設補助金が不正受給されたもので、当時許認可権を持つ老人保健福祉部長という立場にいた岡光が深く関与し、金品を受け取っていたとされ、11月18日、警視庁と埼玉県警は厚生省課長補佐の茶谷滋と社会福祉法人「彩福祉」グループ代表の小山博史を贈収賄の容疑で逮捕し、12月4日、小山代表から6.000万円を受け取っていた疑惑で岡光序治も収賄容疑で逮捕した。後に岡光は懲役2年の実刑判決を受け服役している。この時期、小泉厚生大臣も、岡光次官の辞表を受け取り退職金が支払われる形での退任を認めたことで世論の批判を受けた。
エースの大暴投で法案の行方にまたもや暗雲がたちこめた。

※もしこの事件がなかったら岡光は介護保険を作った人として、我が国の歴史に名を残したかもしれないが、逆にこの事件によって厚生省の「たかりの象徴」として逮捕実刑判決を受けた事務次官経験者として歴史に汚名を残すことになった。

※脱線を続けるが、非常に悲しいことではあるが事件当時、中学生という多感な時期にあった小山の長女が、この時期から精神不安定となり、2004年の9月に自殺してしまった。事件は様々な人を巻き込んで、その後の人生を狂わせている。合掌。

11月21日、自民党総務会で法案了承。

またまた脱線するが、この時期、介護保険法案の原文を読んだ小泉厚相は、その中にたくさんのカタカナが記載されていることを発見し、「日本の法文は日本語で書け」と事務当局に指示を出した。これによりグループホームは「痴呆対応型共同生活介護」に、ホームヘルプは「訪問介護」に、ショートステイは「短期入所」に変えられるなどの作業が行われたが、さすがに「通所リハビリテーション」「訪問リハビリテーション」まで「通所機能訓練」「訪問機能訓練」に変えろという指示は出なかった。このことから考えるに、僕個人の意見としては、グループホームはグループホームのままでよかったのではないかと思っている。

11月29日、国会に法案提出。しかし野党・新進党の西岡幹事長は、厚生省汚職(彩福祉会事件)に触れ「厚生関係議員のトップ」としての首相の責任を追及するとともに、厚生省に対しても介護保険制度の旗振り役の事件を引き合いに出し「法案提出自体が不見識」「汚職事件の中心人物が法案作成にかかわったのであり、撤回すべし」と審議入りそのものを拒否し、通常国会に新たな法案を提出するように求めた。

12月13日、橋本首相は衆議院本会議において「介護保険法案は内閣の最重要課題の一つ。厚生省の不祥事を理由にして法案成立を先送りすべきでない。」として「介護保険関連3法案」は衆議院厚生委員会に付託され、17日に同会で提案理由を説明したが、時間切れで19日臨時国会は閉会し、同法案は継続審議となった。

翌1997年1月20日、通常国会開会。26日、介護保険3法案審議再開。

5月9日、自民党・村岡国会対策委員長と民主党・赤松国会対策委員長会談。翌週、介護保険法案を衆議院本会議で採決することに合意した。与野党合意ができたことで法案成立は間違いなしと思われた。

5月22日、介護保険法案は衆議院厚生員会で、自民・民主・社民の3党と無所属議員で構成する「21世紀」の賛成多数で可決。午後に衆議院本会議可決。参議院送致。反対は新進党と共産党であった。しかし参議院厚生委員会では医療保険制度改革関連法案の修正問題で審議が遅れ、介護保険法の審議に時間が取れなくなった。

6月18日、会期切れ。介護保険法案は臨時国会まで再度継続審議となる。

7月、厚生省内に「介護保険制度準備室」が発足。この時期は、通常国会で介護保険法案は継続審議となったものの、論議が尽くされた感があり、野党民主党の合意を得ていることもあって、秋の臨時国会で可決成立することは間違いないという空気ができていた。

10月21日、介護保険法案参考人質疑(参議院厚生委員会)で、看護師・医療ソーシャルワーカー・自治体首長などが意見を述べた。

12月2日、同委員会で政府責任を明確にする修正を加えたうえで自民・社民・民主・太陽党の賛成多数で法案可決。反対は、全額税制方式を主張した平成会(新進党と公明党の参議院院内合同会派)と、現行老人福祉制度と保険方式の組み合わせを訴えた共産党。

12月23日、衆議院で2ヶ所の法案修正と16の付帯決議が行われ、参議院で1ヶ所の法案修正と19の付帯決議が行われ採決・成立した。新進党は欠席し採決に加わっていない。

このように1996年の通常国会では法案提出が見送られ、その秋の臨時国会で法案提出された後、2度の継続審議を経て、1997年秋の臨時国会終盤の同年暮れに介護保険法案は国会を通過し2000年4月からの同法施行が決まったのである。

では、公的介護保険制度の創設に至る機運がどのように生まれてきたのか、日本の福祉政策、医療保険政策の変換史から、そのことを考えてみたい。(介護保険に続く道、に続く)

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