老施協の役員セミナーの講演抄録を読んでみると、ここの「制度ビジネスと福祉経営」という講演で、福祉医療機構の経営支援室経営企画課長・千葉 正展氏が社会福祉法人の役割について次のように語っている。

「社会福祉法人の立ち位置があいまいになっています。社会福祉法人ではなくてもいい時代になったともいえます。しかし特養でなくてはできない介護、社会福祉法人にしかできない固有の社会福祉があると思います。固有性とはなにか。企業経営を考えるのが社会福祉法人かといえば違和感があります。しかし公益性が高いだけでは存在がアピールできない。結論は浅いかもしれませんが、本来は憲法25条の責任の担い手として存在していると思います。」

以上である。そう長くない言葉であるが様々な示唆に富んだ内容であると思う。(もちろん賛否は様々にあるだろう。)

ただ一口に「社会福祉法人は本来、憲法25条の責任の担い手として存在している。」といっても、この規定がどう解釈されているかを知るものとしては、どうも首をかしげざるを得ないところである。もちろん社会福祉法人が介護サービスの現場で、利用者の基本的人権をきちんと守って、健康で文化的な生活を保障するという観点は必要であるが、憲法25条を持ち出すならば、その法的解釈論を抜きにして「健康で文化的」という文言だけをクローズアップして責務論を語るのは間違いではないかと思う。そのことを少し考えてみた。

憲法25条とは言うまでもなく社会権である生存権と国の社会的使命の規定であり
「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」
「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」

以上の条文を指したものである。

この生存権と国の責務を考える際に避けて通れないのが有名な「朝日訴訟」であり、社会福祉を志したものなら、そのことについては何らかの形で学んでいるはずである。ただ朝日氏が亡くなり最高裁で訴訟終了の判決(実質敗訴)が下りて40年以上を経た今日では、そのことが取り上げられる機会も少なくなったので改めてその内容を確認してみたい。

朝日訴訟とは、岡山国立療養所で療養入院する重症結核患者であった朝日茂氏の「人間裁判」といわれた戦いである。

朝日氏は戦時中の1942年から入院し、生活保護を受け療養治療していた。生保受給状況は厚生大臣の設定した生活扶助基準で定められた最高金額たる月600円の日用品費の生活扶助と、現物給付としての給食付医療扶助である。ところが1956年福祉事務所が20年も音信不通であった兄を探し出し、無理に月1.500円の送金をさせ、それにより津山市社会福祉事務所長は、月額600円の生活扶助を打ち切り、兄の送金額から日用品費を控除した残額900円を医療費の一部として朝日氏に負担させる旨の保護変更決定をした。つまり朝日氏は生活扶助費を打ち切られたうえ、仕送りの1.500円も全額受け取ることを許されず生活扶助費の日用品費と同額の600円のみ自身の生活費として受領するという命令である。

その後、朝日氏の不服申し立てが却下されたため厚生大臣を被告として、600円の基準金額が憲法の規定する健康で文化的な最低限度の生活水準を維持するにたりないものであると主張して争った裁判である。

一審では日用品費月額を600円にとどめているのは「健康で文化的な最低限度の生活の保障」を定めた法律違反であるとして福祉事務所長の裁決を取り消した原告全面勝訴(1960年・東京地裁)であったが、2審では600円はすこぶる低い額であるが不足分は70円に過ぎず、憲法25条違反の域には達しないとして原告の請求棄却という逆転敗訴(1963年・東京高裁)となり、最高裁で係争中に朝日氏が死亡、養子夫妻が訴訟を続けたが最高裁判所は保護を受ける権利は相続できないとして本人の死亡により訴訟は終了したという判決を下した。(1967年・最高裁)

結果として憲法25条規定論議について明確に原告主張を却下したものではなかったが、しかし最高裁は判決後「念のため」として「憲法25条1項はすべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るように国政を運営すべきことを国の責務として宣言したにとどまり、直接個々の国民に具体的権利を賦与したものではない」「何が健康で文化的な最低限度の生活であるかの認定判断は、厚生大臣の合理的な裁量に委されている」という異例の意見を述べている。

この意見は「念のため判決」と通称されているが、判決主文について判示したものではないにしても、最高裁判事15名の合議による意見として重みがあるとされ、いまだにこの意見が生存権規定である憲法25条の解釈基準とされているものである。

そしてその意味するところとは、憲法25条はあくまでプログラム規定、つまり「特定の人権規定に関して、形式的に人権として法文においては規定されていても、実質的には国の努力目標や政策的方針を規定したにとどまり、直接個々の国民に対して具体的権利を賦与したものではない。」とする考え方である。この解釈は年金の併給禁止規定で争った堀木訴訟(1970年)でも踏襲され原告敗訴につながっている。

つまり我が国の憲法で規定されている生存権とは「抽象的あるいは具体的な権利規定」ではないとされているもので、「国の財政事情を無視することができず、また、多方面にわたる複雑多様な、しかも高度の専門技術的な考察とそれに基づいた政策的判断を必要とするものである。」と結論付けられているものであり、社会福祉法人にその責任の担い手としての役割を求めるのは的を射た考え方ではないと思う。

逆に言えば、このプログラム規定論が法解釈である限り「憲法25条の責任の担い手」とは、財源によって左右される給付費の水準に基づいて専門的に判断するものであるとして、社会福祉法人が本来期待されている社会的使命とは相反する基準を尺度とする意味となる可能性が高い。

もし憲法25条がプログラム規定ではなく、抽象的あるいは具体的な国民の権利規定であるという立場であれば「健康で文化的な最低限度の生活」を社会福祉法人がその基準を現場から押し上げて守ろうという考え方は正しくかつ重要と思うが、国の判例に基づくプログラム規定論を放置しての責務の押し付けはいかがなものだろうかと思う。

もちろん朝日訴訟自体は裁判の過程で生活保護基準が段階的に引き上げられるなど、その果たした意義はきわめて大きなものであったといえるし、我が国の社会保障闘争史の中で意味深いものであるが、生存権の解釈が40年以上前の「念のため判決」による状態が続いていて、そのことの見直しがされていない状態で、現場の特定事業主体にその実現を図れと言われても意味がないように思う。福祉医療機構の千葉さんはこの法的解釈を理解して発言しているんだろうか?大いに疑問である。

むしろ過去の論争を理解せず、生存権という言葉だけが独り歩きして、法律上のプログラム規定という概念や解釈に何ら変更の手が加えられないことは危険なことではないかと思う。

憲法25条の責任を担うということであれば、そこで規定された生存権はきちんと国民の絶対的な権利として存在するという法解釈の変更が必要になってくるのではないだろうか。

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