世間の18歳、19歳の若者をみると体つきも大きく一端の大人だなと思うが、これが自分の息子だとそういうふうには思えず、いつまでも「子供」という目線でみている自分に気がつく。

しかし自分の息子も19歳と17歳になっているから、世間からはそれなりの大人とみられている部分もあるんだろうなと思ったりする。

大学2年生の長男が現在夏休みで帰省している。親父の背中を見て決めたわけでもあるまいが、彼は福祉系の大学に在学中である。

その長男が自宅のパソコンで夏休みのレポートを作成している。そんなものを盗み見るような悪い趣味は僕にはないが、たまたまレポートの一部がデスクの横に置きっぱなしになっていたので何気なく目に入り文章の一部を読んだ。社会福祉援助技術の勉強のためのレポートだろうがソーシャルワーカーの「自己覚知」に関連するものだろう。「自分の過去を振り返って今の自分につながっているもの」というような内容のレポートだった。

その中で僕の父(いうまでもなく長男にとっては祖父に当たる)の死のことが書いてあった。

僕の父が死んだのは長男が高校2年生の時であった。外出先の駐車場で突然発作を起こし、一旦呼吸停止した父は、その後なんとか心臓が動いたものの、約2週間後に亡くなった。僕と妻、長男や二男が病床に駆けつけた時は完全に意識のない状態であった。その後の父の死は夜が明ける時間であったが、危篤状態ということでその前の日の夜遅くに家族が全員枕辺に集まり死を看取り、通夜の夜には僕に代わって(酔って寝てしまったので)長男と二男が一晩中寝ないで線香守りをしていた。

その時彼らがどのような気持ちであったのか僕は想像もしなかったが、長男のレポートにはその時の気持ちが書かれていた。

それによると、彼は祖父(長男にとって)が倒れることを想像もしていなかったため、その前に修学旅行があって、祖父から小遣いをもらったお礼をするのを忘れていた。そして結果的にはお礼を言うことができないまま祖父が死んで非常に後悔したというような意味が書かれている。そしてその時以来、物事を後回しにする自分の性格を直そうと思ったと結んでいる。

彼がそんなことを考えながら僕の父の通夜や告別式に臨んでいたとは全く知る由もなかった。大人になったんだなあと実感すると同時に、僕の父の死が彼の人生観に少しでも影響を与えているということは、亡くなった父の魂が、僕の子、父にとっての孫にそうした形でつながっているんだと思った。

人の命ははかないけれど、限りある命であっても人の魂は脈々と残された若い世代にリレーされていくんだと思う。こういう形で父の魂が孫に伝わっていくことを父も天国で喜んでいるだろう。

僕らが次代に伝えていくべきメッセージとは何なのだろう。人生とはその答え探しの旅でもある。そしてそのメッセージは言葉ではなく、自分の「生き様」として伝えられるものではないのだろうか。次代に伝えても恥ずかしくないメッセージを残したいものである。

死は無ではなく永遠の始まりである。そう考えながら、その日を迎えるまでひたすら歩き続けるのがこの世に生を受けた僕たちの義務であり「生きる証し」でもある。

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