1997年6月にお亡くなりになった吉田嗣義氏(大分県・任運荘理事長)は、僕がこの業界に入職した当時の印象として(大変失礼な言い方であるかも知らないが)業界の一服の清涼剤、あるいは業界の良心、という存在であった。

このような先輩達がいて、老人福祉の現場は遅遅としても前に進んできたのかと思ったものだ。

そのことについて「先人達が歩んだ茨(いばら)の道」という記事を書いたことがあるが、その中でも紹介した吉田氏の著書「老人ホームはいま」の中で氏は「老人ホームでは3度死ぬという言葉がある。」として、当時の老人ホームに対する世間の認識が示されている。

それによれば『一度目は死んだつもりで老人ホーム入りを覚悟する。「世間」からのさようならである。二度目は死んだつもりでなければホーム生活は耐えられないということである。「自分」とのさようならである。三度目はこの世からの最後のさようなら。このように、老人ホームは窮屈な集団生活であろうと、多くの人に予想されている。』と指摘している。

著書の中では、そうした世間の印象を変える為にも老人ホーム自体が変わらねばならないとして、吉田氏のホームでは集団生活だから仕方がない、ということはあり得ないこととし、それを理由にした規則を作らないということを主張している。

まさにその方法は個人の思いが実現するケア、利用者本位のケアの具現化である。

この本の初版は1980年である。ということは今から30年も前に、現在グループホームを中心にしたユニットケアの理念と同じことを特養の中で実践、具現化している人がいて、それを実践している施設があったとうことである。

しかし今、世間の認識としてはいまだに介護施設に対し、吉田氏が指摘した「老人ホームでは3度死ぬ。」と表現されている状態と同じ認識を持っている状況はほとんど変わっていない。そういう意味では吉田氏の指摘の場所から介護施設は一歩も進んでいないのではないか、少なくとも世間の認識を劇的に変える状況を生んではいないのではないか、ということが言えるのではないだろうか。

誰しも自分の住みなれた家を離れ施設に入りたいと思う人はいない。だからある意味、死ぬ気にならないと施設入所できないという思いを皆無にできる時代が来ることはあり得ないのかもしれない。現状でも介護施設の入所を決断するのは本人であるより、介護者である家族である場合の方が多い。それはすでに施設入所の是非を判断する理解力等がない重度者が施設に入所するという現状も関係しているのだろうが、同時に、どのような不自由な生活が強いられても、住みなれた自宅から離れたくないという思いを持つことが、すべてを理屈で解決できない感情ある人間というものの本質であるからだ。

しかしそのような覚悟を持って施設に入所された人々が、逆の意味での「想定外」、入所前の印象とは全く違って、この施設に入所出来て良かった、と思えるようなサービスを提供することが我々に課せられた社会的使命である。

よって国の介護給付費分科会等で単純に「施設入所を決定するのは、ほとんど家族で、利用者本人は望んでいないケースがほとんどである。」という意見を述べて、施設サービスの品質を「劣悪」だと指摘したり、そのことだけで施設サービスを評価することは的外れもよいところで、入所後の利用者の意識の変化や、入所後の「思い」に目を向けた議論がないと意味がないのである。

しかし同時に我々は『二度目は死んだつもりでなければホーム生活は耐えられないということである。「自分」とのさようならである。』という状況が生まれていないかという事を常に検証し続けなければならない。何か特別なイベントの際だけ、利用者が喜んでいる姿を見て、自分たちのケアサービスが正しいと思うのは、施設サービス従事者の勝手な思い込みに過ぎない。

日常の様々な場面で、利用者の日々の暮らしが守られ、遠慮なく自身の生活が営まれているのか、という視点が一番重要である。利用者の我慢の上に成り立っている施設生活では何の意味もない。利用者は、施設の中で我慢しなければならない要素が少しでもあれば、その我慢を死ぬまで抱え込んで生きていかねばならないのである。職員のように別にプライベートの空間や時間があるわけでもなく、逃げ場がない、ということを我々は深刻な問題として常に考えておらねばならない。

時として、利用者が施設の中で死んだ気で我慢しなければならない問題に、人間関係の問題がある。

利用者間の人間関係なら我々が力を貸して解決に結びつけることは可能であるが、介護に携わる人間の無理解という関係障害であれば、これは施設あるいは施設従業者そのものの存在が障害であり、本人がそのことに気づかないのであれば救いようがなく、解決手段さえない、ということになりかねない。

施設の中で施設長やその他の職員が「制限すること」を仕事だと勘違いしたり、集団生活だからという馬鹿な理屈をつけて、利用者の思いを封じ込めるのに躍起になっているような施設はなくなっているのだろうか。

施設長や、権限のある職員の気分で、サービスのあり方がくるくる変わってしまったり、利用者の目線の前に自分(施設あるいは施設職員)の都合でサービスが決まってしまったり、利用者の生活より金勘定のほうが優先されるような運営が行われていないかということは、いつの時代も問われるのである。

もちろん適切サービスには、適切経営という事が前提でありコスト意識や安定経営のための収益確保は重要であるが、我々の提供する施設サービスは、民間営利企業が参入できないサービスであり、それは利潤を目的としない社会福祉援助であるという基本原則を忘れて運営することは許されないのである。

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