上から目線という言葉を聞く機会が増えたように思うが、少なくとも我々ソーシャルワーカーが援助過程で、利用者に対して上から目線で対応することは許されない。そのことは今更指摘するまでもなく誰もが理解できる常識だろう。
しかし実際に、援助場面で上から目線で対応する場面はしばしば見られる。それは無意識に自分の経験と知識を過信した態度として現われてしまう姿であり、豊かな経験が時として目を曇らせるのである。
特に相談援助場面においては、経験からわかりきった問題と認識するソーシャルワーカーの玄人としての視点が「上から目線」での対応に終始してしまう場面を作り出すことがあるので注意が必要である。
医療機関では経験の豊富な看護師が、患者の相談に対し、耳を傾けるのではなく、説得に終始する場面が見られる。場合によっては、それは説教にしかなっていないことがある。患者が自らの身の上に関する深刻な問題を若い看護師に訴えて埒があかないときに、婦長などに訴えた途端、訴えを聞いてくれるどころか説教されてはかなわない。こうなると「経験」というものの意味を考え直してみる必要があるだろう。
かつて経験は必ずしも知恵にならないことを「経験の功罪〜知恵とカキガラ」の中で指摘したことがあるが、ソニーの創始者である井深 大氏が似たような言葉を残している。
「経験など尊重する必要はない。我々は新しいことをどんどんやっていかなければならないのだから、過去の経験に頼る人よりも、どんな問題がでてきても驚かない度胸を持った人のほうがずっと貴重である。」と語っている。
僕自身の個人的意見でいえば、経験のあることは決して悪いことではないだろうと思う。
しかし人間は経験によって成長することもできるが、同じ経験の中で退廃も起こりうるのである。特に経験を重ねることが、物事に感動しない心を生むとすれば、それは「動じない心」ではなく「鈍った心」に繋がりかねない。よって経験の行き着く先として、常に「恍惚の人」に繋がる可能性があることを心するべきである。
さらにいえば経験とは貴重な体験ではあったとしても、それらはすべて過去のことである。しかし過去と似たようなことは未来に起り得ても、過去とまったく同じことが起こる確率は極めて少ない。だから経験は必ずしも未来の課題に通用するとは限らないのであり、いたずらに経験を誇ってもどうしようもないともいえる。
経験を過度に評価するあまり、今までのやり方に固執してしまう人は、歴史の新しい波の中で消え行く存在となろう。
重要なことは経験を通して自らが成長することであり、それは成長しようという意識を持つ人のみが獲得できるもので、経験そのものが成長ではないという意識が必要である。
そういう意味で、人が成長するためには、ひとつ、ひとつの経験の中から、どんな状況にも通用する何かを身につけようとする意識が必要なんだろうと思う。
それがソニー創始者の井深さんにとっては「度胸」であると考えたのかもしれないし、別の人にとっては「愛情」と考えるのかもしれないし、時には「共感」なのかもれない。
その答えを探すのが我々の人生(たび)の目的であり、生きる意味だろう。しかし少なくともその意味は介護保険制度の理念の一つである「自立」でないことは確かである。
なぜなら人とは関係の中で生きることができるものであり、一人だけの力で生きるなんてことはありえないからである。自立より「共生」のほうが、よっぽど大事であるからだ。
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医療機関では経験の豊富な看護師が、患者の相談に対し、耳を傾けるのではなく、説得に終始する場面が見られる。場合によっては、それは説教にしかなっていないことがある。患者が自らの身の上に関する深刻な問題を若い看護師に訴えて埒があかないときに、婦長などに訴えた途端、訴えを聞いてくれるどころか説教されてはかなわない。こうなると「経験」というものの意味を考え直してみる必要があるだろう。
かつて経験は必ずしも知恵にならないことを「経験の功罪〜知恵とカキガラ」の中で指摘したことがあるが、ソニーの創始者である井深 大氏が似たような言葉を残している。
「経験など尊重する必要はない。我々は新しいことをどんどんやっていかなければならないのだから、過去の経験に頼る人よりも、どんな問題がでてきても驚かない度胸を持った人のほうがずっと貴重である。」と語っている。
僕自身の個人的意見でいえば、経験のあることは決して悪いことではないだろうと思う。
しかし人間は経験によって成長することもできるが、同じ経験の中で退廃も起こりうるのである。特に経験を重ねることが、物事に感動しない心を生むとすれば、それは「動じない心」ではなく「鈍った心」に繋がりかねない。よって経験の行き着く先として、常に「恍惚の人」に繋がる可能性があることを心するべきである。
さらにいえば経験とは貴重な体験ではあったとしても、それらはすべて過去のことである。しかし過去と似たようなことは未来に起り得ても、過去とまったく同じことが起こる確率は極めて少ない。だから経験は必ずしも未来の課題に通用するとは限らないのであり、いたずらに経験を誇ってもどうしようもないともいえる。
経験を過度に評価するあまり、今までのやり方に固執してしまう人は、歴史の新しい波の中で消え行く存在となろう。
重要なことは経験を通して自らが成長することであり、それは成長しようという意識を持つ人のみが獲得できるもので、経験そのものが成長ではないという意識が必要である。
そういう意味で、人が成長するためには、ひとつ、ひとつの経験の中から、どんな状況にも通用する何かを身につけようとする意識が必要なんだろうと思う。
それがソニー創始者の井深さんにとっては「度胸」であると考えたのかもしれないし、別の人にとっては「愛情」と考えるのかもしれないし、時には「共感」なのかもれない。
その答えを探すのが我々の人生(たび)の目的であり、生きる意味だろう。しかし少なくともその意味は介護保険制度の理念の一つである「自立」でないことは確かである。
なぜなら人とは関係の中で生きることができるものであり、一人だけの力で生きるなんてことはありえないからである。自立より「共生」のほうが、よっぽど大事であるからだ。
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