札幌医科大学付属病院が死産の赤ちゃん専用の産衣(うぶい)を作ったニュースが7/11の北海道新聞第4社会面で報道されている。
死産の赤ちゃんは通常の新生児の産衣でも大きすぎる場合が多く、見送る際に心を痛めた同病院の産科周産期室の師長らが開発し「エンジェルドレス」と名付けたそうである。
このニュースを読んでの感想であるが、人の生死の現場にはいろいろな状況が横たわっており、そこに関係する人々は様々な思いを抱えているんだなあと感じた。そういった意味で、大変興味深く記事を読ませてもらった。しかし・・・。
僕は新聞のこの記事全体について、読後感としてある違和感を持たざるを得ないのである。
まずこの記事を読む前に視覚に飛び込んでくるのは、記事の約1/3を占めるであろう大きな写真である。その写真には二人の看護師:エンジェルドレスの開発に携わった看護師長と看護部副部長なる人物が、はじけるような笑顔で産衣をその手に持って写っている。その写真からは、記事の内容が死産の赤ちゃんを見送るための産衣のニュースであることはほとんど想像できない。
(当該記事と写真:一定期間後リンクが切れ、見れなくなる可能性があります。)
そういう意味で、記事を読んで、その内容と写真の笑顔にギャップのような違和感が僕の中には残った。ただそれは、あくまで個人的な感覚なのかもしれない。
しかし過去にこの病院で死産を経験された妊婦やその家族の方々は、この産衣の開発について、よいことだとは思うであろうが、その報道記事と二人の看護師の笑顔には同じような違和感を持つのではないのだろうか、とも感じた。
とても素晴らしい発想で開発された産衣であっても、それを実際に使うであろう人々は、産衣に包まれたことに喜びを感じることはできないくらいの深い悲しみの中に沈んでいるであろう。そういう意味でも、例え死産という不幸な状況に遭遇した人々にとって必要な産衣の報道であっても、そういう人々の気持ちを慮った、もう少し「静かな報道」であってよいのではないだだろうか。
この写真の「笑顔」はこの記事にそぐわないと思った。
編集者のジャーナリストとしてのセンスと配慮のなさを、この記事から感じ取ったことが、僕の読後の違和感の原因だろう。
ところでangel(エンゼルともエンジェルとも表現され、どちらも間違いではない)という言葉は、医療機関や介護現場ではエンゼルケアという言葉でつかわれる場合がある。
簡単にいえばエンゼルケア=死後処置のことである。場合によっては湯灌や死に化粧を含めて、そのことを表現する場合があるが、医療機関や介護施設ではエンゼルケア=死後処置と考えてよいであろう。その表現方法の意味は遺体を単に物体として扱うのではなく、魂が旅立った後の肉体として真摯に対応するという意味をあらわすと同時に、死後処置というものが単に機械的作業にならないような注意喚起、遺体に対する敬謙なる心を失わないという意味を込めたものであろう。
しかし僕は我が国の医療機関や介護施設でこの言葉を使うことにも大いなる違和感を持つのである。
Angel:エンゼルとはまぎれもなく天使という意味である。しかし日本人の観念上の天使とは何ぞや、と考えた時、それは欧米人の観念と明らかに違うように思う。特に諸外国の人々の死生観は、宗教観と密接に関連して、死は終わりではなく「神に召される」という意味を感じている人が多く、その際に神のもとに導くものがエンゼルであるというイメージを持つ人が多い。
しかしながら日本人のそれは全く異なるもので、エンゼル:天使のイメージを、小さな子供に羽が生えた可愛らしいもの、という単純なとらえ方をしている人も多いはずである。(参照:エンゼルプラン命名秘話)少なくともそのイメージに死を連想する人は少ない。
また日本人にとって、死とは「仏になる」というイメージが強い。仏様に天使は似合わない。そういう意味でも違和感がぬぐえない。なんでも外国が使っている言葉が先進ではないだろう。それぞれの国々が持つ伝統的な宗教観や死生観に配慮した言葉が必要ではないのか?特に我が国の保健・医療・福祉現場ではそういう伝統的な日本人の観念への配慮が欠けているように思う。
介護施設の「看取り介護指針」の中にも死後処置を「エンゼルケア」と表記している場合があるが、これも僕にとっては「いじり過ぎ」としか感じられないのである。
我々は、流行とは関係のない、極めて伝統的な社会の一員として、常識的な感覚で対人援助に携わる必要がある。人の尊厳を損なわないために様々な表現方法の工夫は必要であろうが、それがすべて横文字でしか表現できないのでは、それは単に意味をぼやかしているに過ぎないと思った。
世界一美しい母国語を持つ国であるにも関わらず、看護や介護に携わる人々、特にそのリーダー的地位にある人のセンスは最悪である。
看護や介護の貧困さがここでも表れている、という意味でなければよいのであるが・・・。
死産の赤ちゃんは通常の新生児の産衣でも大きすぎる場合が多く、見送る際に心を痛めた同病院の産科周産期室の師長らが開発し「エンジェルドレス」と名付けたそうである。
このニュースを読んでの感想であるが、人の生死の現場にはいろいろな状況が横たわっており、そこに関係する人々は様々な思いを抱えているんだなあと感じた。そういった意味で、大変興味深く記事を読ませてもらった。しかし・・・。
僕は新聞のこの記事全体について、読後感としてある違和感を持たざるを得ないのである。
まずこの記事を読む前に視覚に飛び込んでくるのは、記事の約1/3を占めるであろう大きな写真である。その写真には二人の看護師:エンジェルドレスの開発に携わった看護師長と看護部副部長なる人物が、はじけるような笑顔で産衣をその手に持って写っている。その写真からは、記事の内容が死産の赤ちゃんを見送るための産衣のニュースであることはほとんど想像できない。
(当該記事と写真:一定期間後リンクが切れ、見れなくなる可能性があります。)
そういう意味で、記事を読んで、その内容と写真の笑顔にギャップのような違和感が僕の中には残った。ただそれは、あくまで個人的な感覚なのかもしれない。
しかし過去にこの病院で死産を経験された妊婦やその家族の方々は、この産衣の開発について、よいことだとは思うであろうが、その報道記事と二人の看護師の笑顔には同じような違和感を持つのではないのだろうか、とも感じた。
とても素晴らしい発想で開発された産衣であっても、それを実際に使うであろう人々は、産衣に包まれたことに喜びを感じることはできないくらいの深い悲しみの中に沈んでいるであろう。そういう意味でも、例え死産という不幸な状況に遭遇した人々にとって必要な産衣の報道であっても、そういう人々の気持ちを慮った、もう少し「静かな報道」であってよいのではないだだろうか。
この写真の「笑顔」はこの記事にそぐわないと思った。
編集者のジャーナリストとしてのセンスと配慮のなさを、この記事から感じ取ったことが、僕の読後の違和感の原因だろう。
ところでangel(エンゼルともエンジェルとも表現され、どちらも間違いではない)という言葉は、医療機関や介護現場ではエンゼルケアという言葉でつかわれる場合がある。
簡単にいえばエンゼルケア=死後処置のことである。場合によっては湯灌や死に化粧を含めて、そのことを表現する場合があるが、医療機関や介護施設ではエンゼルケア=死後処置と考えてよいであろう。その表現方法の意味は遺体を単に物体として扱うのではなく、魂が旅立った後の肉体として真摯に対応するという意味をあらわすと同時に、死後処置というものが単に機械的作業にならないような注意喚起、遺体に対する敬謙なる心を失わないという意味を込めたものであろう。
しかし僕は我が国の医療機関や介護施設でこの言葉を使うことにも大いなる違和感を持つのである。
Angel:エンゼルとはまぎれもなく天使という意味である。しかし日本人の観念上の天使とは何ぞや、と考えた時、それは欧米人の観念と明らかに違うように思う。特に諸外国の人々の死生観は、宗教観と密接に関連して、死は終わりではなく「神に召される」という意味を感じている人が多く、その際に神のもとに導くものがエンゼルであるというイメージを持つ人が多い。
しかしながら日本人のそれは全く異なるもので、エンゼル:天使のイメージを、小さな子供に羽が生えた可愛らしいもの、という単純なとらえ方をしている人も多いはずである。(参照:エンゼルプラン命名秘話)少なくともそのイメージに死を連想する人は少ない。
また日本人にとって、死とは「仏になる」というイメージが強い。仏様に天使は似合わない。そういう意味でも違和感がぬぐえない。なんでも外国が使っている言葉が先進ではないだろう。それぞれの国々が持つ伝統的な宗教観や死生観に配慮した言葉が必要ではないのか?特に我が国の保健・医療・福祉現場ではそういう伝統的な日本人の観念への配慮が欠けているように思う。
介護施設の「看取り介護指針」の中にも死後処置を「エンゼルケア」と表記している場合があるが、これも僕にとっては「いじり過ぎ」としか感じられないのである。
我々は、流行とは関係のない、極めて伝統的な社会の一員として、常識的な感覚で対人援助に携わる必要がある。人の尊厳を損なわないために様々な表現方法の工夫は必要であろうが、それがすべて横文字でしか表現できないのでは、それは単に意味をぼやかしているに過ぎないと思った。
世界一美しい母国語を持つ国であるにも関わらず、看護や介護に携わる人々、特にそのリーダー的地位にある人のセンスは最悪である。
看護や介護の貧困さがここでも表れている、という意味でなければよいのであるが・・・。
masaさんのジャーナリストの感性が鈍いという指摘は、同感です(末端で仕事をする自分に言い聞かせています)。写真一枚は、時に紙面にあらわした記事よりも雄弁に物語るからです。それが分かっているかと問われれば、即答できません。ただ、記事の扱いから、編集部の思想や哲学が見えると思っています。