相談援助で一番大事なことは「傾聴の姿勢」であると過去の記事で書いたことがある。(参照:面接の技法。

傾聴ができて初めて、相談場面がスタートするといってよいが、当然のことながら、傾聴と同様にソーシャルケースワーカーには様々に求められる必要な態度があり、受容の態度も同じく重要である。(参照:受容とは何か〜許容でないという意味。

そして受容の根底には、共感的理解が不可欠である。相談者の訴えについて「評価的態度」をとらずに共感することが大事とされている。しかし世の中の価値観も、個人の好みも様々である。ソーシャルワーカーといえど本当に全ての人々の訴えに共感的理解が可能なのだろうか。どうしたら我々は、価値観や生活歴の異なる他人の考え方に共感できるのだろうか。そんなことを少し考えてみたい。

共感的理解を単に「わかること」と考えるのは間違いだろう。そもそも「わかる」という言葉は実に多様に使われ、例えば、僕が忙しく仕事をしている最中に、部下であるソーシャルワーカーが仕事内容の報告をしてきた場合、それがさして重大な問題ではないと感じた際に「わかった。わかった。」と言うとしたら、それは「うるさいから黙ってくれ、もういいよ。」という意味であるかもしれない。しかし「うん、よくわかった。」というと、正しく伝達事項を受け取って了解したという意味になる。

「君のいうことはわかった、でもそれは違う」と言えば、それは理解ではなく評定である。「わかった、僕も同意見だ。」といえば共鳴あるいは同意であろう。「わかったよ。そういう考えならしょうがないな。」といえば妥協であり、ある意味投げ出した結果とも言える。わかり方にもいろいろあるのである。これらは共感的理解とはいえないだろう。

こう考えると共感的理解とは、結果として「わかる」ことではなく「わかったつもり」になることでもなく「わかろうとする」という過程そのものではないのだろうかと考えられる。しかし「わかろうとする」ことは、わかろうとする他人のことをすべて知ろうとすることではなく、自分とは違う他人である人と「ともに理解しようとする姿勢」ではないかと考えられる。

結果的に、社会福祉援助の専門家であっても、他人と同じ価値観を持つことは出来ないし、その必要もない。同じ事象を見ても、その判断や考え方は異なって当然である。だから第三者と同じ価値観や結論を持つことを共感的理解というのではなく、なぜそのように彼(彼女)は考えるのだろうかというふうに理解しようとする過程から「貴方にとっては、こんなふうに感じるんだなあ」という思いに至ることが共感的理解といえるのではないだろうか。

つまり、人はそれぞれ違った考え方や感じ方を持ち、そこに人の独自の生き方があるのだから、その全てを許容しないとしても「そういう考え方もあるのだ」というふうに受容することが共感的理解であろう。

コミュニケーションというのは、場合によっては容易であり、場合によっては困難である。例えば言葉を交わさなくても、相手の心の動きや感情が理解できる関係がある。家族や恋人や、親友の関係にしばしばみられる例である。

しかし他人とのコミュニケーションは、言葉で伝達しあう方法が主となるが、言葉を交わしてもなお誤解が生ずることがある。コミュニケーションとはそれだけ難しいのであり、我々ソーシャルワーカーが、赤の他人であるクライエントと対するときは、常にそうした困難さを抱えざるを得ない。

だから、どんなに経験をつんで知識を得ても、常に他人の気持ちをともに理解しようとする基本態度が不可欠であるし、常日頃、そのことを意識して関る必要があるのだろうと思う。

そうした理解的態度を身につける訓練としてスーパービジュンやコンサルテーションは重要な機会であり、クライエントの感情を様々な角度から推測できる訓練になるであろう。

大事なことは、我々ソーシャルワーカーは社会福祉援助の専門家であり、専門知識と技術を持つものであるが、だからといって、クライエントの全ての問題を解決する答えを持つわけではないということである。我々はその答えを引き出す手助けをするために、ともに悩み、ともに考え、ともに歩むのである。

その基本原理と、それを促す修練をやめたとき、我々は、単なる説教マシーンとなり、クライエントにとって必要ない存在になるであろう。

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