僕の生まれ育った故郷は、この国の地図の上には既になく、廃墟となっていることについては何回かこのブログで触れている。
(参照:故郷がよみがえる日々)
同級生も全国ちりぢりになってしまっているので、中学を卒業後、まったく音信不通の人も多い。しかしリンクを貼り付けた記事で紹介しているように、仲間の絆は強く、一昨年には中学卒業時のクラスメートの所在は全員を確認して名簿も作成できた。
それはネットの力に負うところが大きく、僕が作成管理している同窓会のホームページとその掲示板や、その中の情報を見て各自でメールをやりとりする中で、全国あるいは外国を含めた情報が集まった結果である。
しかもその動きは現在も停滞しておらず、時々思わぬ形の連絡が、おもに同窓会Web掲示板への書き込みという形で入る。
ゴールデンウイークが近づいた今年4/27日、その掲示板に突然次のような書き込みがあった。
『ひょんなことから、この掲示板に来ました。1973年2月(当時小6で卒業間近)まで菱光にいて、転校して行った「〇〇」と呼ばれていた男です。東町に住んでいて、〇〇〇〇君や〇〇〇〇君とよく遊んでいました。あの……
〇〇〇〇(掲示板でのハンドルネーム)=〇〇〇〇君
〇〇〇〇=〇〇〇〇チャン
〇〇〇〇=〇〇〇〇君
〇〇〇〇=〇〇〇〇君ではありませんか?
もしそうだったら、かなりの確率で同級生だと思いますが…。間違っていたらごめんなさい。』
このようなメッセージが書き込まれた。間違いなく小学生時代の同級生である。勿論今では顔も忘れて思い出せないが、子供の頃、彼と遊んだ思い出はよみがえってきた。早速返信を書き込んで、やり取りするうちに、東京新宿で5/15に行う「飲み会」に彼も参加することになった。彼にとっては36年ぶりに故郷の仲間に逢えるということになる。本当に良かった。
ネット掲示板で個人のメルアドをやりとりするのは様々な危険があるので、この場合、管理人である僕が同級生同士の連絡の仲介役になることが多いのであるが、今回もそうしていたところ、36年ぶりに連絡がついた彼から、1977年当時、まだ下川鉱山が健在の頃(といっても閉山間際である)の航空写真の画像を送ってもらった。
これが、僕が生まれ育ち高校1年生の秋まで住んでいた下川鉱山の全景である。
この細長い町に、最盛期は3000人近い住民が暮らしていた。
画像、中央よりやや左側、下側に集合住宅のような建物が並んで伸びているが、これが「西町」と言われた地区で、当時僕はここに住んでいた。逆側の右端の上のほうに伸びている地域が「東町」と呼ばれる地域で、両者の中間に位置する地域が「仲町」と呼ばれ小中学校などがあった地域である。西町と東町、そして神社のある宮町が山の上にある坂の町で、平坦な土地は学校のある仲町と東町側に隣接する旭町、少し離れて西町側のさらに左側に位置する緑町という6地域で「新下川町」とも呼ばれ、古くは「下川町字ペンケ」とも呼ばれていた「下川鉱山」が構成されていた。
左側に伸びている一本道が道道で、ここから下川町〜名寄市に繋がっているわけであるが、逆側の右手の道は単に山奥に一本の細い道が伸びているだけで、最終的にはどん詰まりとなって、行き止まりである。まさに山奥を切り開いた町だったのである。
しかし炭鉱ではなく、銅を産出する鉱山で、僕らが生まれ物心つく時期は周辺の市町村よりかなり景気が良い裕福な町であった。住宅もすべて社宅で家賃は無料。電気・ガス・水道などもほとんど「ただ」に近い料金(大部分を会社が負担)だったし、公衆浴場は番台がない無料の社交場であった。各家庭の生活水準も、一般労働者としてはかなり高かったといわれている。特に坑内労働者の賃金は高く、当時の世相としては贅沢な暮らしができたといわれている。(僕の父は坑外の事務系だったので、家庭もさほど裕福ではない、いわゆる中流家庭であった。ただ物に不自由を感じたことはない。)
インフラ整備もすすんでいたと思われ、上下水道の整備も早くからできており、物心ついたころには、汲み取り式の便所など周囲には見られず、全戸水洗トイレであった。昭和40年代の前半であるから、庁舎のある下川町よりも進んでいたし、全道規模で見ても先進地域であったろう。
例えば僕は昭和51年に岩見沢市に転居した当時、同市では下水道整備が進んでおらず、ほぼ市内全域が水洗化されたのは昭和54年頃であったし、就職してから転居した登別市でのそれは平成に入ってからのことである。下川鉱山の上下水道の整備は、それらと比しても先進地帯といってよかったろう。
ただ商店等の数はほとんど会社直営の「購買」というところが独占的に小売をしており、その他の商店は2件しかなかった。コンビニなどもちろんあるわけがない。
住民は、学校の先生と公務員、商店経営者以外は、全町内が「三菱金属」というひとつの企業の従業者であったから、外出する際に玄関の鍵をかける必要がなかった町である。盗みなど働くと町に住めなくなるから泥棒などいないのである。
(※余談であるが、僕の両親は、その町がなくなり、岩見沢市に引っ越してからも、その癖が抜けず、外出時に玄関の施錠をしないため2度も空き巣に入られて、かなりの被害を受けたことがある。警察も2度も鍵を掛けず外出して被害を受けたことにあきれていた。〜話を戻す〜)
この町の特徴は、炭鉱町に多い「飲み屋」が1軒もないことである。なんでも風紀を維持するために居酒屋や水商売の営業を一切認めていなかった、とのことである。大人たちが「飲みにいく」場合、ここから10キロ離れた下川町が一番近い「飲み屋」のある場所で、必然的に、大人たちの社交場は各家庭で、それぞれ集まって飲み会を開く、ということが多かったようだ。そういえば、僕の家でも毎月何日か、会社の「おじさん」達が数人集まって飲んでいた。母親も「肴」を作るのに大変だったろう。
1枚の航空写真からこのようなことを思い出していた。
しかし今その上空から写真を撮ったとしても、建物は廃墟となった小中学校校舎など数棟があるだけで、それも草木に隠れて写らず、ただうっそうと茂った森の中に、わずかに人工物として道とおぼしきアスファルトの残骸が写るだけであろう。
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同級生も全国ちりぢりになってしまっているので、中学を卒業後、まったく音信不通の人も多い。しかしリンクを貼り付けた記事で紹介しているように、仲間の絆は強く、一昨年には中学卒業時のクラスメートの所在は全員を確認して名簿も作成できた。
それはネットの力に負うところが大きく、僕が作成管理している同窓会のホームページとその掲示板や、その中の情報を見て各自でメールをやりとりする中で、全国あるいは外国を含めた情報が集まった結果である。
しかもその動きは現在も停滞しておらず、時々思わぬ形の連絡が、おもに同窓会Web掲示板への書き込みという形で入る。
ゴールデンウイークが近づいた今年4/27日、その掲示板に突然次のような書き込みがあった。
『ひょんなことから、この掲示板に来ました。1973年2月(当時小6で卒業間近)まで菱光にいて、転校して行った「〇〇」と呼ばれていた男です。東町に住んでいて、〇〇〇〇君や〇〇〇〇君とよく遊んでいました。あの……
〇〇〇〇(掲示板でのハンドルネーム)=〇〇〇〇君
〇〇〇〇=〇〇〇〇チャン
〇〇〇〇=〇〇〇〇君
〇〇〇〇=〇〇〇〇君ではありませんか?
もしそうだったら、かなりの確率で同級生だと思いますが…。間違っていたらごめんなさい。』
このようなメッセージが書き込まれた。間違いなく小学生時代の同級生である。勿論今では顔も忘れて思い出せないが、子供の頃、彼と遊んだ思い出はよみがえってきた。早速返信を書き込んで、やり取りするうちに、東京新宿で5/15に行う「飲み会」に彼も参加することになった。彼にとっては36年ぶりに故郷の仲間に逢えるということになる。本当に良かった。
ネット掲示板で個人のメルアドをやりとりするのは様々な危険があるので、この場合、管理人である僕が同級生同士の連絡の仲介役になることが多いのであるが、今回もそうしていたところ、36年ぶりに連絡がついた彼から、1977年当時、まだ下川鉱山が健在の頃(といっても閉山間際である)の航空写真の画像を送ってもらった。
これが、僕が生まれ育ち高校1年生の秋まで住んでいた下川鉱山の全景である。
この細長い町に、最盛期は3000人近い住民が暮らしていた。
画像、中央よりやや左側、下側に集合住宅のような建物が並んで伸びているが、これが「西町」と言われた地区で、当時僕はここに住んでいた。逆側の右端の上のほうに伸びている地域が「東町」と呼ばれる地域で、両者の中間に位置する地域が「仲町」と呼ばれ小中学校などがあった地域である。西町と東町、そして神社のある宮町が山の上にある坂の町で、平坦な土地は学校のある仲町と東町側に隣接する旭町、少し離れて西町側のさらに左側に位置する緑町という6地域で「新下川町」とも呼ばれ、古くは「下川町字ペンケ」とも呼ばれていた「下川鉱山」が構成されていた。
左側に伸びている一本道が道道で、ここから下川町〜名寄市に繋がっているわけであるが、逆側の右手の道は単に山奥に一本の細い道が伸びているだけで、最終的にはどん詰まりとなって、行き止まりである。まさに山奥を切り開いた町だったのである。
しかし炭鉱ではなく、銅を産出する鉱山で、僕らが生まれ物心つく時期は周辺の市町村よりかなり景気が良い裕福な町であった。住宅もすべて社宅で家賃は無料。電気・ガス・水道などもほとんど「ただ」に近い料金(大部分を会社が負担)だったし、公衆浴場は番台がない無料の社交場であった。各家庭の生活水準も、一般労働者としてはかなり高かったといわれている。特に坑内労働者の賃金は高く、当時の世相としては贅沢な暮らしができたといわれている。(僕の父は坑外の事務系だったので、家庭もさほど裕福ではない、いわゆる中流家庭であった。ただ物に不自由を感じたことはない。)
インフラ整備もすすんでいたと思われ、上下水道の整備も早くからできており、物心ついたころには、汲み取り式の便所など周囲には見られず、全戸水洗トイレであった。昭和40年代の前半であるから、庁舎のある下川町よりも進んでいたし、全道規模で見ても先進地域であったろう。
例えば僕は昭和51年に岩見沢市に転居した当時、同市では下水道整備が進んでおらず、ほぼ市内全域が水洗化されたのは昭和54年頃であったし、就職してから転居した登別市でのそれは平成に入ってからのことである。下川鉱山の上下水道の整備は、それらと比しても先進地帯といってよかったろう。
ただ商店等の数はほとんど会社直営の「購買」というところが独占的に小売をしており、その他の商店は2件しかなかった。コンビニなどもちろんあるわけがない。
住民は、学校の先生と公務員、商店経営者以外は、全町内が「三菱金属」というひとつの企業の従業者であったから、外出する際に玄関の鍵をかける必要がなかった町である。盗みなど働くと町に住めなくなるから泥棒などいないのである。
(※余談であるが、僕の両親は、その町がなくなり、岩見沢市に引っ越してからも、その癖が抜けず、外出時に玄関の施錠をしないため2度も空き巣に入られて、かなりの被害を受けたことがある。警察も2度も鍵を掛けず外出して被害を受けたことにあきれていた。〜話を戻す〜)
この町の特徴は、炭鉱町に多い「飲み屋」が1軒もないことである。なんでも風紀を維持するために居酒屋や水商売の営業を一切認めていなかった、とのことである。大人たちが「飲みにいく」場合、ここから10キロ離れた下川町が一番近い「飲み屋」のある場所で、必然的に、大人たちの社交場は各家庭で、それぞれ集まって飲み会を開く、ということが多かったようだ。そういえば、僕の家でも毎月何日か、会社の「おじさん」達が数人集まって飲んでいた。母親も「肴」を作るのに大変だったろう。
1枚の航空写真からこのようなことを思い出していた。
しかし今その上空から写真を撮ったとしても、建物は廃墟となった小中学校校舎など数棟があるだけで、それも草木に隠れて写らず、ただうっそうと茂った森の中に、わずかに人工物として道とおぼしきアスファルトの残骸が写るだけであろう。
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仕事の都合とはいえ、首都圏出身の私は、はじめにこの町を見た時はふて腐れました。「なんで俺がこんなド田舎に住まなければならないんだ」と。
しかし、住めば都とはよく言ったもので、そもそも釣り好きの小生が首都圏では滅多にお目にかかることの叶わないヤマメ(北海道ではヤマベ)やイワナを、釣りたいだけ釣り食したいだけ食すうちに、この町の良さ、否、良さという一言では足らぬほどの素晴らしさを満喫していました。
数年後、町を転出することとなったその日、名も知らぬ小高い丘から西の山々を茜色に染める夕焼けを見て、私の心の中にドボルザークの『家路』が流れていました。「ここを去りたくない……」 その時ようやく、私はこの町の人間になっていたことに気付いたのです。縷々(るる)に頬を伝う惜別の涙はその証しでした。
表のみならず、こちら裏板のほうも毎日読ませていただいております。これからもmasa様の書き込みを楽しみにさせていただきます。多謝。