社会福祉士会には高齢者関連だけではなく様々な分野で活躍する仲間が参加しているので、いろいろな方々と知り合える大変貴重な会である。
道レベルの研修会やセミナー、懇親会等で知り合いになる方も多く、僕の人間関係ネットワークはここで大きく広がっている。
先日もかねてから僕の批判対象にしている日本介護支援専門員協会の関係者の方とも知り合う機会を得た。お叱りをうけつつ、楽しくお話ができた。安田大先生の知り合いのOさん、その節はお世話になりました。
そんな中で、オホーツク支部で頑張っておられる「ダマシくん」と知り合いになった。同じ分野で活躍する仲間ではあり、非常に熱い心を持った若者(ですよね?)である。こういう後輩が後に続いてくれるから安心だ。彼のような熱い心を持って現場で活躍している人と繋がりができることを考えると、この会の会費は安いものである。会員の皆さんは是非、高いといわれる会費に見合った活動は、単に受身ではなく、研修や総会に足を運んで対価が得られるという意識をもってほしい。会費は無駄には使われていないのである。安い給料で本当に頑張っておられる社会福祉士会事務局の方々の待遇をこれ以上低下させず、できるだけ上げるためには我々の会費が貴重な財源であるのでご協力をいただきたい。
さてそのダマシくんと先週土曜の懇親会でお話をしている最中に、職場の中で自分の考えを他の職員に伝える難しさという意味の話になって、そのことを今日、水曜のブログ記事に書いてみることを約束した。
論旨はダマシくんが期待するものと違うかもしれないが、考え方を書いてみたい。それに伴って前半部は、関連する内容と言う意味で、僕のネット管理の考え方などにも触れてみる。
ネット人格という言葉があるが、ネット掲示板の書き込みだけを読んで、僕自身の性格や思考回路を知ることはまず不可能だろうと思っている。それは現実の僕とネット上の人格が違うということではなく、そもそもネットの書き込みに人格が現われるなんていうことではないんだろうと思うからである。
実生活上の本当の僕と、ネットで発言する僕の表現方法や内容は、意識的に違わせている。
それは面と向かい合っているか、いないかという違いも多少はあるだろうが、それより根本的にネット上の文字表現は人格表現ではないと思うからであり、日常の意思疎通と目的や方法が自ずと違うと考えるからである。
目の前に相手がいる場合には、言えないこともネット掲示板には遠慮なく書ける、という部分は確かにあるし、面と向かい合って話し合えないゆえに、伝わらないこともあることを否定はしない。文字にはアクセントや表情を出せないからである。しかしそういう問題ではないのである。
僕という一人の人間の人格はネット上の文字表現とは別な場所に存在するものなのである。あんな場所に人間の魂があってたまるか。
一番の違いとは、ネット掲示板の場合は、微妙な感情のやり取りが不可能なので、誤解が生じないように断定的に言い切ったり、あえて厳しい言葉で表現する場合も多い、ということである。
特に表の掲示板は、専門家が専門家に質問することが多いので、安易に答えを出すだけではなく、根拠をきちんと自分自身で見つけることために「お尻を押してやる」ことも必要なので、わざと厳しい言葉を選んで叱咤激励することがある。それは意識的に強い表現で奮起を促さないと、かえって誤解して「なあなあ」の関係の中の理解で終わってしまう場合があるからだ。それではその場は平和に終わったとしても、人として、専門家としての成長には役立たないだろう。
結果的にそれが相手に不快ととられても仕方がないと思う。そこから「見返す」という感情が生まれて、その人自身が自ら進んで勉強しようと発奮して、僕らを乗り越えて、本当に見返すことができれば、この国の福祉を担う人材のスキルアップである。いわば僕は表の掲示板では確信犯である。
だが、実生活。特に職場で、このような態度を硬直的にとっていては仕事自体が進まないことが多々ある。現実の業務の中では、妥協せよとはいわないが、議論をとことんまで突き詰めて、相手を言葉でこれでもか、これでもかと屈服させてはならないことが多い。
特に正義感に燃える若い職員にはこの区別やコントロールが難しく、結果的に職場で浮き上がって仕事ができない、という状況に陥ってしまうことがある。正しい主張でも、必要なことでも、それが仲間に伝わって、全員でその実現に向かわねば仕事は成立しない。対人援助場面においても、正論だから、それを全ての人が「わからない」のは相手のせいで自分の責任ではないのだから、声高らかに正論のみを主張していれば良い、と言うことではないのである。
司馬遼太郎さんが著書の中で以下のような文章を書いている。
「論における勝ち負けということを、あまり意に介してはならない。
特に100%自分の意見に相手を屈伏させる必要はない。
もし7分どおり自分の意見に相手が服しているなら、あとの3分まで勝とうとすれば相手は開き直るだろう。むしろ議論に勝つということは、相手の名誉を奪い、恨みを残し、実際面で逆効果になることが現実にはしばしばある。適当なところで鉾をおさめることも人間生活を営むうえでは大切なことである。」
「仕事というのは困難な大きな仕事であればあるほど、ひとりで全部をやってしまってはいけない。8分までで良い。8分までが困難の道である。あとの2分は誰がやってもできる。その2分は人にやらせて功を譲ってしまう。そういう志を持っていなければ大事業というものはできない。」
まあ僕自身もここまで人間ができているとは言えないが、議論に勝って気持ちよくなっているだけの満足感というものはあまり意味がないような気がしてきている。仕事も一人でできることであっても誰かに手を貸してもらうことが、よりその後の為になることも理解できるようになりつつある。
人の考え方は様々で、自分の意見と違う人が、自分の意見に同調してくれるようになることはまれである。だから人が自分の意見をわかってくれないなんていうことを嘆く必要はない。時間をかけて我々の実践から少しずつ同調してもらうことを増やしていこうと考えることがあっても良いのではないだろうか。トップダウンによる命令が必要なことと、そのことは分けて考えて良いだろうと思う。
年をとってもわからないことは多いが、同時に年をとらねばわからないこともあるんだと思ったりもする。
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道レベルの研修会やセミナー、懇親会等で知り合いになる方も多く、僕の人間関係ネットワークはここで大きく広がっている。
先日もかねてから僕の批判対象にしている日本介護支援専門員協会の関係者の方とも知り合う機会を得た。お叱りをうけつつ、楽しくお話ができた。安田大先生の知り合いのOさん、その節はお世話になりました。
そんな中で、オホーツク支部で頑張っておられる「ダマシくん」と知り合いになった。同じ分野で活躍する仲間ではあり、非常に熱い心を持った若者(ですよね?)である。こういう後輩が後に続いてくれるから安心だ。彼のような熱い心を持って現場で活躍している人と繋がりができることを考えると、この会の会費は安いものである。会員の皆さんは是非、高いといわれる会費に見合った活動は、単に受身ではなく、研修や総会に足を運んで対価が得られるという意識をもってほしい。会費は無駄には使われていないのである。安い給料で本当に頑張っておられる社会福祉士会事務局の方々の待遇をこれ以上低下させず、できるだけ上げるためには我々の会費が貴重な財源であるのでご協力をいただきたい。
さてそのダマシくんと先週土曜の懇親会でお話をしている最中に、職場の中で自分の考えを他の職員に伝える難しさという意味の話になって、そのことを今日、水曜のブログ記事に書いてみることを約束した。
論旨はダマシくんが期待するものと違うかもしれないが、考え方を書いてみたい。それに伴って前半部は、関連する内容と言う意味で、僕のネット管理の考え方などにも触れてみる。
ネット人格という言葉があるが、ネット掲示板の書き込みだけを読んで、僕自身の性格や思考回路を知ることはまず不可能だろうと思っている。それは現実の僕とネット上の人格が違うということではなく、そもそもネットの書き込みに人格が現われるなんていうことではないんだろうと思うからである。
実生活上の本当の僕と、ネットで発言する僕の表現方法や内容は、意識的に違わせている。
それは面と向かい合っているか、いないかという違いも多少はあるだろうが、それより根本的にネット上の文字表現は人格表現ではないと思うからであり、日常の意思疎通と目的や方法が自ずと違うと考えるからである。
目の前に相手がいる場合には、言えないこともネット掲示板には遠慮なく書ける、という部分は確かにあるし、面と向かい合って話し合えないゆえに、伝わらないこともあることを否定はしない。文字にはアクセントや表情を出せないからである。しかしそういう問題ではないのである。
僕という一人の人間の人格はネット上の文字表現とは別な場所に存在するものなのである。あんな場所に人間の魂があってたまるか。
一番の違いとは、ネット掲示板の場合は、微妙な感情のやり取りが不可能なので、誤解が生じないように断定的に言い切ったり、あえて厳しい言葉で表現する場合も多い、ということである。
特に表の掲示板は、専門家が専門家に質問することが多いので、安易に答えを出すだけではなく、根拠をきちんと自分自身で見つけることために「お尻を押してやる」ことも必要なので、わざと厳しい言葉を選んで叱咤激励することがある。それは意識的に強い表現で奮起を促さないと、かえって誤解して「なあなあ」の関係の中の理解で終わってしまう場合があるからだ。それではその場は平和に終わったとしても、人として、専門家としての成長には役立たないだろう。
結果的にそれが相手に不快ととられても仕方がないと思う。そこから「見返す」という感情が生まれて、その人自身が自ら進んで勉強しようと発奮して、僕らを乗り越えて、本当に見返すことができれば、この国の福祉を担う人材のスキルアップである。いわば僕は表の掲示板では確信犯である。
だが、実生活。特に職場で、このような態度を硬直的にとっていては仕事自体が進まないことが多々ある。現実の業務の中では、妥協せよとはいわないが、議論をとことんまで突き詰めて、相手を言葉でこれでもか、これでもかと屈服させてはならないことが多い。
特に正義感に燃える若い職員にはこの区別やコントロールが難しく、結果的に職場で浮き上がって仕事ができない、という状況に陥ってしまうことがある。正しい主張でも、必要なことでも、それが仲間に伝わって、全員でその実現に向かわねば仕事は成立しない。対人援助場面においても、正論だから、それを全ての人が「わからない」のは相手のせいで自分の責任ではないのだから、声高らかに正論のみを主張していれば良い、と言うことではないのである。
司馬遼太郎さんが著書の中で以下のような文章を書いている。
「論における勝ち負けということを、あまり意に介してはならない。
特に100%自分の意見に相手を屈伏させる必要はない。
もし7分どおり自分の意見に相手が服しているなら、あとの3分まで勝とうとすれば相手は開き直るだろう。むしろ議論に勝つということは、相手の名誉を奪い、恨みを残し、実際面で逆効果になることが現実にはしばしばある。適当なところで鉾をおさめることも人間生活を営むうえでは大切なことである。」
「仕事というのは困難な大きな仕事であればあるほど、ひとりで全部をやってしまってはいけない。8分までで良い。8分までが困難の道である。あとの2分は誰がやってもできる。その2分は人にやらせて功を譲ってしまう。そういう志を持っていなければ大事業というものはできない。」
まあ僕自身もここまで人間ができているとは言えないが、議論に勝って気持ちよくなっているだけの満足感というものはあまり意味がないような気がしてきている。仕事も一人でできることであっても誰かに手を貸してもらうことが、よりその後の為になることも理解できるようになりつつある。
人の考え方は様々で、自分の意見と違う人が、自分の意見に同調してくれるようになることはまれである。だから人が自分の意見をわかってくれないなんていうことを嘆く必要はない。時間をかけて我々の実践から少しずつ同調してもらうことを増やしていこうと考えることがあっても良いのではないだろうか。トップダウンによる命令が必要なことと、そのことは分けて考えて良いだろうと思う。
年をとってもわからないことは多いが、同時に年をとらねばわからないこともあるんだと思ったりもする。
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感動の完結編。

まさにそのとおりだと、部下ができ、この年になり、何となくわかるようになってきました。まだまだ自分で仕事をかぶってしまう感は否めませんが・・・
福祉とは何ですか。
社会福祉士とは何ですか。
自分に問いかけ日々過ごしています。
おそらく福祉と、やりがい、魅力のある福祉の仕事を広め、理解してもらうために必要なこと。
自分の中で理解でき、それが言葉で展開、表現できるようになることが当面の目標。
まだまだ到達しませんが・・・
自分が理解することはもちろん、これに限らずいろいろな方に理解していただけるように表現することは本当に難しい。masaさんに絶対に聞いてみようと。
初対面でありながら、気持ちよく言葉を交わしてくださったmasaさん。
裏掲示板の鋭く、切れ味のある内容や表現のなかに見え隠れするやさしさが話してもよくわかる、ソフトな方です。
「機会を作ってぜっったいに話したい!」と思った自分の感性は間違いではありませんでしたよ♪
僭越ながら、またお会いできること、酒席をお供させていただけることを楽しみに、オホーツクから福祉と社会福祉士、社会福祉士会の発展に微力ながら精一杯力を注ぎたく思います。