特養の重度化対応加算算定要件の中に「看取り介護の研修を定期的に実施する。」という条件がある。

これは実際に看取り介護をする、しないに関わらず、重度化対応加算という体制加算を算定している施設は実施せねばならないものだ。

またターミナルケア加算を算定する療養型老健でも、この研修は必須であるが、次期報酬改定では既存型老健にもターミナルケア加算が認められる可能性が高く、そうなれば既存型老健もこうした研修の定期実施が求められてくる。

もちろん実際に「看取り介護」を実施するためには、職員間で様々なコンセンサス形成が大事だし、施設としての理念の理解とあわせて、実際の具体的な方法論まで介護の質を一定レベル以上に保つ為にも、その教育は必要不可欠だから、この研修は形式的で書式を整える為だけに終わらせることはできない。

僕の施設でも毎年複数回、看取り介護加算の算定要件や、指針の理解、具体的サービス提供方法など、様々な観点から研修を実施している。僕が講義を行うこともあるし、外部講師をお願いすることもある。

ところで各施設の看取り介護研修の実施状況を聞くことがあるが、その時によく出される話題が「死生観の教育」という問題であり、それが重要であるという意見である。

他の施設の研修内容を突っ込んで聞いたことはないが、死生観の教育って実際には、どのように行われているんだろう。

まさか死生観を「このように持ちなさい」、死生観とは「こうあるべきだ。」という内容ではあるまい。そういう押し付けは教育には馴染まないものである。

だから「死生観の教育」と一口に言うが、それは非常に難しい問題であると僕自身は考えている。

死生観とは「死あるいは生死に対する考え方。また、それに基づいた人生観。」という意味であり、広義には、それは「死んだらどうなるのか」「死後や死者をどう考えるか」「生きることはどのような意味と価値があるか」「死とは何か」などを含んだ考え方であるといえる。

それは極めて主観的な問題で、自分の人生観であるから、個人の生きてきた生活史そのものと深く関連して、他人と自分の考え方が等しいからよいということにはならない。

つまり死生観の教育とは、生や死をどのように考えるべきなのか、という押し付けを行うのではなく、人にはそれぞれの様々な死生観があり、看取り介護の現場に関わる職員は、それらの様々な死生観や価値観に受容的に寄り添うものであるという理解を持つことだろうと思う。

そして看取り介護に関わるものの責任として「命」が尊いということを前提に、死を迎える場所や、死を迎える形は様々に異なっても「生きる」こと自体に価値があり、安易に「こうした生き方は人間としてふさわしくない」と考えないことではないかと思う。

実際に、現代社会では、いろいろな場所でいろいろな死の迎え方がある。医療器具をつけて延命治療を行う場合もあれば、経管栄養さえも拒み死を迎える人もいる。

それについて「看取り介護」に関わる立場のものが良いとも、悪いとも判断する必要はないのでないかと思う。

我々には、当事者が選択した死の迎え方をきちんと受容して是非の判断を行うことなく、与えられた条件下で、でき得る最大限のケアサービスを提供するということが求められているように思え、それが当事者の死生観をも受け入れることではないかと思う。

つまり看取り介護の現場で必要な死生観教育とは、施設側が良かれと考える死生観を職員に押し付けることではないということだ。

特に日本人は、欧米人と違って、宗教観に基づく明確な死生観そのものを持っていない人もいる。そういう理解を含めて死生観という問題を理解する必要があるだろう。

近い将来の死に対する考え方、それに備える姿勢は様々であり、それぞれの価値観を尊重して、今我々が看取り介護の現場ででき得る最大限の支援において、最期まで「生きる」ことを支え続けるのが「看取り介護」であるのだから・・・。

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