表の掲示板では時々、援助場面での言葉遣いが問題になることがある。

福祉援助の場面では、我々はプロフェッショナルであるのだから、それ相応の知識と技術を持っていることが当然で、相手の心に不快感を与えない配慮も援助技術のうちである。よって日常会話と援助場面の言葉遣いが同じでよいことにはならないと思う。

そのため僕は過去にも「言葉遣いにうるさいことは強制労働よりひどいという批判に対して」、「介護現場の割れ窓理論」、「介護サービスの割れ窓理論再び」などという記事を書いてきた。

どのような理由があろうとも、利用者が言葉で不快を感ずるリスクを排除することは、施設の管理者として当然行い続けなければならない責務だと思うし、親しみを「ぞんざいな言葉遣い」で表現する必要はまったくないと思う。

僕の生活圏内にある大きな総合病院では、正面玄関を入ると立派な金属製のプレートが飾られ、そこには「医療機能評価認定」を受けていて、患者の尊厳を守るスローガンが掲げられている。

ところが一歩病棟に入ると、そこでは年端もいかない若い看護師が高齢者をニックネームで呼んだり、「ちゃん付け」で呼んだりしている。丁寧語などまったく聞かれず命令口調だ。これが尊厳の保障とか人権の尊重になるかどうか、議論の余地さえない。自分の親が年端も行かない若い看護師にそのような口の聞き方をされて喜ぶ子供がいるのか?患者という「人質」だからそれに我慢しているだけではないのだろうか。

医療機能評価は何を評価しているんだろう。

それともニックネームや「ちゃん付け」で呼ぶことが親しみを表すとでも思っているのか、馬鹿馬鹿しい。

しかし言葉遣いの議論において、必ず「でもね。必ずしも丁寧な言葉でなくても良いのでは?」という疑問を呈する複数の関係者が存在する。

つい最近の表掲示板の「言葉遣いについて」の中でもそうであるが、それらの人々の典型的意見の一例に「敬語でも思いやりのない心のない言葉は仏作って魂入れず。形だけ綺麗でも相手の心には伝わらないと思います。」という意見がある。

一見正論に聞こえるが、こうした理屈によって医療機関や福祉現場の「荒い言葉」「不適切な言葉」が延々と改善されず残っている現実を考えねばならない。こうした理屈は、いま日本の医療・看護・福祉・介護現場の言葉の乱れがある現状では「必要ない言い訳」だと僕個人は思っている。

そもそもそうした意見をいう人々は本当に「仏作って魂入れず」という言葉とそうではない言葉の区別ができる能力を持っているんだろうか。

それ以前に、言葉を正しくする意味とか効果とかをわかっているんだろうか。

言葉というものはそれを正しくすることで自分自身や周囲の態度に影響を与えるものであり、最初は意味もわからず、心もこもらずに使う言葉であっても、それが適切なものなら、そこに自然と態度の変容に繋がる効果が現われることが、敬語を作り出した先人の知恵なのだ。

言霊(ことだま)という言葉がある。それは言葉には「良き言の葉は良きものを招き、悪き言の葉は災いを招く」という意味があるということだ。まず言葉を正しくすることで自身の態度もそれにふさわしくできる、ということに繋がる。

だから僕は最初の段階では「形だけ綺麗であっても正しい言葉遣いができる訓練がまず大事である。」と思っているし「親しみをこめたとしても場面により荒っぽく聞こえる不適切な言葉など使う必要ない。」と考えている。

方言は確かに尊ぶべき日本の地方文化であるが、それを使ってよい集団や場面を考えるのがプロであるし、それができないなら最初から方言など使うべきではない。

我々は、保健・福祉・医療現場で支援を受ける人々が、人の世話になっていると感じざるを得ない状況の中で、本当に遠慮なく全ての意見を表明できる状況にあるのかということを常に考えながら、その中で一人ひとりの援助対象となる方々が、様々なものにより「静かに傷ついてはいないか?」という視点を常に持つべきである。

言葉を正しく使うという意味は、そうした配慮の中にあることを忘れないでほしい。

介護・福祉情報掲示板(表板)

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