介護保険制度の創設当初からの理念の一つに「自立支援」というキーワードがある。

現在でもその言葉を「お題目」のように唱え続ける計画担当者や行政担当者は数多い。できる能力を失わないように支援したり、今までできなかった行為ができるようになる可能性を探ること自体は良いことだ。

しかし自立だけが絶対的な価値観であると考えるとしたら、それは違うだろうと思う。人の一生とは成長と衰えの曲線の上を生きているということだ。老年期は、様々な機能が衰えていく時期であり、昨日までできていた行為が今日も明日もできるとは限らない。

しかしそうした機能低下は決して恥ではなく自然の摂理である。

その時に自立だけに価値があるとするのでは、能力が失われてしまった人々は「人」としての価値をも認められないということになってしまう。人の能力には限界があり、頑張ってもできないことは数多くあることを知るべきである。

高齢期の必要な援助の視点は、時には自立ではなく『共立』であるということを忘れてもらっては困る。適切な支援者の援助によりQOLを保とうとする視点こそが求められている場面が多々ある。それを忘れている関係者はいないのだろうか?

頑張るだけが、人の価値でもないだろう。頑張らない人、頑張れない人は人としての価値を失っているとでも言うのだろうか・・。

しかもおかしなことに、介護保険制度は、そのサービスを利用する当事者だけではなく、周囲の人々も頑張らなくてはいけない制度になっている。

制度創設の目的は、家族が担っていた介護を社会全体で支える仕組みに変えるというふうに説明され、今まで頑張っていた介護者が「息抜き」をできる制度になるはずであったのに、いざ強制加入の介護保険制度ができ、保険料が強制的に徴収されるようになると、頑張らなくてよくなったはずの家族の介護能力がサービス提供の是非判断に影響することがある。

極めつけは訪問介護の生活援助で、同居家族の有無でサービスの提供可否が決まったりするが、これがどんどん拡大解釈されていることである。

その視点からは、家族は人間として見られる前に、サービスを提供するインフォーマルな社会資源として見られたりしている。本当にこの制度の有り様は正しいものなんだろうか。

馬鹿にするな。

国民は、ひとりひとり、心のある人間なんだ。いつも頑張れないし、くじけることがある弱い存在なんだ。

社会全体で支えあう保険制度とは、皆がぎりぎりまで頑張らなくてもよくなる仕組みを作るという意味があったんではないのか。

「それは家族が行うべきことでしょ。」と簡単に断じる保険者職員は、強制加入保険で生ずる国民の権利との整合性をきちんと語れるのであろうか。家族が頑張って限界点に達する瀬戸際で、心が壊れていく様をみたことがあるんだろうか。

日中、仕事をしなければ生活できない人々に、日中独居の要介護高齢者の家事が援助できるわけがないではないか。2世帯住宅だって立派な独立した家屋だ。2世帯の家事を専業主婦ではあっても、嫁さんが一人で賄わねばならないということでもあるまい。一律に同居と同様に扱ってどうするんだ。通院だって家族がいて、付き添い支援能力があっても自分のために使う時間を確保するというニーズだってある。それさえ許されない制度を強制加入方式で作り上げたというのだろうか。

人の頑張りを法律で規定できるとでも思っているんだろうか。

しかし介護保険制度はますます被保険者も家族も頑張らなくてはならない制度になってきている。要介護状態になることを予防してサービスをできるだけ使わないように頑張らねばならないし、サービスを使う場合も医学的リハビリ中心の考え方で身体機能を維持向上させることが一番大事であるという考え方に国はルールを変えながら誘導している。おまけにそれに洗脳された都道府県や市町村の担当者は過度にそのことを求めたりする。

現場でサービスを提供する事業者の中にもそういう偏った方向にマインドコントロールされている人々が存在している。

恐ろしいことに、他の制度でも、例えば新しい健康保険制度では太りすぎたら罰則が科せられるシステムが作られている。国民の私生活まで介入するかのごとく誘導政策がとられ、そこで甘い汁を吸う関係者も生み出されている。

しかし国が理想とするものは「国民が健康で文化的な生活を送ることができる社会」ではない。本音は役人が湯水のように税金を使うための財源は別にしっかり確保し、その余りで国民生活を作りあげるためのシステムである。

政治家(日本ではこの文字は「せいじや」と読むべきである。)と官僚だけが豪華でうまいものを食い太って、そうした豚どもが高価な洋服を着て、威張って往来を闊歩する社会になってはいないか。

その中で、うまく立ち回ったり、余得を受けられるコネクションをもったものだけが甘い汁を吸える。(赤字運営なのに国民の血税であるはずの公費6.000万円を補助金名目で支出してもらい救ってもらえる日本介護支援専門員協会もこの部類だ。)

一般市民はそのおこぼれの一部で細々と生を養うのがこの国の真の姿だ。何が先進国なものか。

そして、自分達の浪費を改めようとしない「お上」の財源論により社会福祉にかける費用は厳しく制限され、結果として社会保障の行き渡らない影の部分は切り捨てられている。国家の運営者達はその現場から目を背けるどことか、存在を最初から無視している。

国民だけが汗水たらして「汚い奴ら」が浪費する税金を一生懸命に納め、死ぬまでがんばり続けなければならない。そういう国で我々は、高齢期を過ごさなければならないのである。

持続できる制度であることのみに偏った改正が行われてきたことにより、介護保険制度とは、一面こうした形で国民の尻を叩き続ける制度となってしまった。何かが大きく間違っている。

せめて現場のケアマネジメントの視点は、頑張らなくてもよい介護をも含めた支援方法のあり方を模索しなければならないのではないだろうか。

そして本来の地域保険者の役割は、住民の目線でそのマネジメントの結果を援助するものではないのだろうか。

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