いま我々は様々な物質とサービスと情報にあふれた社会に住み、わずか10年前の生活条件に比べても便利な生活を送っている。僕が生まれた1960年代と比較するなら、多くの人々が快適で、豪華ですらある生活を送っているかもしれない。
しかし一面それは別な問題を引き起こしている。様々な財貨やサービスが無限に存在すること自体が人々のストレスの供給源になっているからである。
例えば大量生産を大量消費に直結させるための効果的な広告宣伝があふれる中で、人々の欲望を抑えるのは難しい。あれも欲しい、これも欲しいし、そのためにもっと収入を得たいと考えるのは人情であり、しかもその欲望はとどまることを知らない。カラーテレビが「3種の神器」のひとつであった時代は遥か遠い昔となり、今やパソコンや携帯電話は生活必需品であり、大型液晶テレビが茶の間にないと我慢できないという人々が増えている。
巷(ちまた)に物やその情報があふれていることによって、そのすべてを手にできることが不可能である限り「現代人」は常に不満である。その結果、欲望を満足させる手段として「労働」を喜びや生きがいを感じる社会活動と思う以前に、収入を得るための無限な、そして細分化された単純反復作業としか感じない人々が増え続ける。
そうした社会の特異的側面は、人間関係の希薄化、非人格化と個人の孤立化、無力化を助長するであろう。犯罪心理学はこの部分にもっとアプローチせねばならないし、その心理的側面にアプローチできるのはソーシャルケースワークの機能しかないのではなかろうか。
しかも現代の文明社会を生きるためには、人々は様々な物品をそろえなければならない。流行は生存のために必要不可欠なものではないが、しかしそれは現実には贅沢ではなく生活に必要なものとなっている。そして自給自足的な生活が絵空事になっている社会において、金銭なくして生活は成り立たない。
それは現在でも今後の社会においても「所得保障」を確実にしなければならないことを意味し、それには収入が得られる職業が保障され、万一病気や災害で困窮に陥った場合でも、この現代文明社会において「健康で文化的な最低限の生活」が可能となる金銭とサービスの給付が不可欠であることをも意味している。生活保護費における老齢加算や母子加算の廃止などは、そういう意味でも過度な給付抑制策である。骨太改革は財政改善に役立っても、財政の基盤である社会そのものが国民生活の崩壊によってズタズタにされている。庶民の涙の上に胡坐しているすべての政治家は万死に値する。
便利で快適で豪華でさえある社会といっても、すべての国民がそれを甘受しているわけではない。昔と違って今の貧困者は「飢え死」からは守られ、その状態ははるかに良くなっているというのは幻想・虚像である。
全体的な生活水準は上がり、人間の生活そのものも変わってきているが、「豊かな日本」においてなお貧窮者はますます貧しく惨めであり、上層階層との格差はますます広がり、貧窮者は疎外感と不満に打ちひしがれている。それは我々の生活水準を基点として貧窮者をみても明らかである。
富める者の莫大な資産がマスメディアを通して社会の前面に出され、その結果、社会の下層で暮らす人々の実態を隠している。この歪を直さねばならない。貧窮者の生活水準を高めて、いかに格差を縮小あるいは解消するかが現代の貧困問題解決の最大の課題である。
ところで社会福祉は全国民を対象にして公的責任において行われる。
しかしこのことは社会福祉の諸制度がその組織を巨大化して官僚機構の中に組み入れられることをも意味している。その負の遺産が人間社会にどう影響するのかということは歴史が証明するまでもなく、現在の日本社会の実態として現われている。
それは官僚機構の都合によって仕事の能率は考えられ、問題は限局され、資格条件は厳格化され、利用者の声は無視され、組織自体の目的のために組織はひとりで動き、真にそれを必要とする個人が利用することが二の次になってしまっている、という事実である。
その無反応な管理社会において唯一、民衆の側に立ち、民衆の権利や要望を実現するため積極的役割を果たすものがソーシャルケースワークであり、個人が社会と接続される時々において、社会における生活単位として個人の全体を把握し、その個人が内蔵する問題を明らかにし、必要なときに適切な援助を与える役割を担うものでもある。
そう考えるとソーシャルケースワークとは社会福祉の領域に限らず、人間尊重の社会を実現するための担い手なのである。
日本は、そしてこの人間社会は今後どうなってしまうのだろう。人類の繁栄とは単に物質文化が向上することではないし、文明とは科学技術や機械構造物によってしか象徴されるものでもないだろう。精神的な豊かさを失った社会は繁栄した社会とはいえないのではないだろうか。
その行き先がどこか、たどり着く先がどこなのか、力のない個人としての僕には答えが出せるわけもない。
ただひとつ言えることは、ソーシャルワーカーとしての役割は、今、我々の支援を必要としている様々な個人の生活をより安定した快適なものにする一方、ソーシャルワーカーとしてケースの中に社会問題を発見し、その根源を究明し、制度改革へと向うアクションをも起こしていくことだということである。
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しかし一面それは別な問題を引き起こしている。様々な財貨やサービスが無限に存在すること自体が人々のストレスの供給源になっているからである。
例えば大量生産を大量消費に直結させるための効果的な広告宣伝があふれる中で、人々の欲望を抑えるのは難しい。あれも欲しい、これも欲しいし、そのためにもっと収入を得たいと考えるのは人情であり、しかもその欲望はとどまることを知らない。カラーテレビが「3種の神器」のひとつであった時代は遥か遠い昔となり、今やパソコンや携帯電話は生活必需品であり、大型液晶テレビが茶の間にないと我慢できないという人々が増えている。
巷(ちまた)に物やその情報があふれていることによって、そのすべてを手にできることが不可能である限り「現代人」は常に不満である。その結果、欲望を満足させる手段として「労働」を喜びや生きがいを感じる社会活動と思う以前に、収入を得るための無限な、そして細分化された単純反復作業としか感じない人々が増え続ける。
そうした社会の特異的側面は、人間関係の希薄化、非人格化と個人の孤立化、無力化を助長するであろう。犯罪心理学はこの部分にもっとアプローチせねばならないし、その心理的側面にアプローチできるのはソーシャルケースワークの機能しかないのではなかろうか。
しかも現代の文明社会を生きるためには、人々は様々な物品をそろえなければならない。流行は生存のために必要不可欠なものではないが、しかしそれは現実には贅沢ではなく生活に必要なものとなっている。そして自給自足的な生活が絵空事になっている社会において、金銭なくして生活は成り立たない。
それは現在でも今後の社会においても「所得保障」を確実にしなければならないことを意味し、それには収入が得られる職業が保障され、万一病気や災害で困窮に陥った場合でも、この現代文明社会において「健康で文化的な最低限の生活」が可能となる金銭とサービスの給付が不可欠であることをも意味している。生活保護費における老齢加算や母子加算の廃止などは、そういう意味でも過度な給付抑制策である。骨太改革は財政改善に役立っても、財政の基盤である社会そのものが国民生活の崩壊によってズタズタにされている。庶民の涙の上に胡坐しているすべての政治家は万死に値する。
便利で快適で豪華でさえある社会といっても、すべての国民がそれを甘受しているわけではない。昔と違って今の貧困者は「飢え死」からは守られ、その状態ははるかに良くなっているというのは幻想・虚像である。
全体的な生活水準は上がり、人間の生活そのものも変わってきているが、「豊かな日本」においてなお貧窮者はますます貧しく惨めであり、上層階層との格差はますます広がり、貧窮者は疎外感と不満に打ちひしがれている。それは我々の生活水準を基点として貧窮者をみても明らかである。
富める者の莫大な資産がマスメディアを通して社会の前面に出され、その結果、社会の下層で暮らす人々の実態を隠している。この歪を直さねばならない。貧窮者の生活水準を高めて、いかに格差を縮小あるいは解消するかが現代の貧困問題解決の最大の課題である。
ところで社会福祉は全国民を対象にして公的責任において行われる。
しかしこのことは社会福祉の諸制度がその組織を巨大化して官僚機構の中に組み入れられることをも意味している。その負の遺産が人間社会にどう影響するのかということは歴史が証明するまでもなく、現在の日本社会の実態として現われている。
それは官僚機構の都合によって仕事の能率は考えられ、問題は限局され、資格条件は厳格化され、利用者の声は無視され、組織自体の目的のために組織はひとりで動き、真にそれを必要とする個人が利用することが二の次になってしまっている、という事実である。
その無反応な管理社会において唯一、民衆の側に立ち、民衆の権利や要望を実現するため積極的役割を果たすものがソーシャルケースワークであり、個人が社会と接続される時々において、社会における生活単位として個人の全体を把握し、その個人が内蔵する問題を明らかにし、必要なときに適切な援助を与える役割を担うものでもある。
そう考えるとソーシャルケースワークとは社会福祉の領域に限らず、人間尊重の社会を実現するための担い手なのである。
日本は、そしてこの人間社会は今後どうなってしまうのだろう。人類の繁栄とは単に物質文化が向上することではないし、文明とは科学技術や機械構造物によってしか象徴されるものでもないだろう。精神的な豊かさを失った社会は繁栄した社会とはいえないのではないだろうか。
その行き先がどこか、たどり着く先がどこなのか、力のない個人としての僕には答えが出せるわけもない。
ただひとつ言えることは、ソーシャルワーカーとしての役割は、今、我々の支援を必要としている様々な個人の生活をより安定した快適なものにする一方、ソーシャルワーカーとしてケースの中に社会問題を発見し、その根源を究明し、制度改革へと向うアクションをも起こしていくことだということである。
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魂を感じない。
本当に人を救いたい、世を良くしたいと思っているとは思いますが、世は実験サンプルではないし、人生一度切と非永遠である命を持った人間の幸福を踏みにじっている。