先週書いた「消費税率アップがもたらすもの。」というブログの中に、グロソブさんが書いてくれたコメントを読んで、僕も思わず学生時代のことを思い出してしまった。特にナショナルミニマムという言葉に卒論を書いていた当時のことを思い出したりした。(参照:卒業論文を書いていた夏のこと。)

僕の大学4年生の時期は、年齢で言えば21歳〜22歳にかけてであり、年代で言えば昭和57年〜58年である。

意外とまじめに授業を受けていた僕は、3年生までに必修単位はほとんどとっており、4年生では授業はほとんどなかった。
(それは自分がまじめで優秀な学生だったという意味ではなく「小心者」であるということによるものだ。単位なんかどうにでもなるさ、という気持ちになれず、落第しないようにせっせと授業を可能な限り受けていた結果である。)

4年も後期になるとゼミだけに出席して、あとは大学に通わず卒論に専念していた。ゼミは「松井 二郎教授」の社会福祉実践理論の研究に関するものであった。ここには毎回欠席せずまじめに参加研究していた。

大学に通わぬ日は、卒論作りのため図書館通いをしていた、と言いたいところであるが、事実は、ほとんど「遊び」と「バイト」三昧の日々であり、片手間に文献を探しながら、遅々とした卒論作りを行っていた。まあ最終的には完成して、当時、道内1厳しいといわれた北星学園大学の卒論審査にも通って卒業できたんだから文句をつけられる筋合いではないのである。もちろん主席卒業なんていう恥知らずなことにはならなかったので、あえて断わっておきたい。劣等性の誇りここにあり。

卒論のテーマは「シビルミニマムと福祉」というもので、当時のテーマとしては斬新だったし、現在各地域で行われている市民による福祉計画作りの必要性にも触れており、その先見性はたいしたものである。(と人が言ってくれないので、自分で思い込んでいる。)

シビルミニマムとはナショナルミニマム(当時の文献ではナショナルミニマムではなくナショナ・ミニマムと表記しているものが多かったが、現在はナショナルミニマムが一般的である)に対して、法政大学の松下 圭一名誉教授が造語、理論化した概念であり、東京都の美濃部知事が東京都中期計画の中でこの概念を取り入れたことから一躍脚光を浴びた言葉である。

ナショナルミニマムが社会的に認められる最小限度の国民生活水準のことであり、国家が広く国民全体に対して保障すべき必要最低限の生活水準とされるのに対し、シビルミニマムとは、市民が生活していくのに最低限必要な生活基準に基づき市民と自治体の協働で「社会保障等の基準」を定めるべきとしたもので「市民による街づくり計画」が方法論に含まれてくる。

僕は卒論のなかでは、これをもっと積極的に、市民の側の尺度から作り上げる新しい社会福祉サービスの「最低基準」と考えて、各分野(高齢者や障害者、児童福祉など)別のシビルミニマムによる制度設計について論じたものである。

卒論を書いている際にも気付いていたが、当然のこととしてナショナルミニマムにおける最低基準と、シビルミニマムにおける最低基準の考え方には大きな差があり、当然それは後者の方が高いレベルを示すものとなる。この違いはどこから生じるのだろうか。

この理由はある意味、当然といえば当然のことであり、市民の側は自らの持って生まれた権利としての生活保障を求め、その権利意識のベクトルは国民全体の生活水準が上昇する伴い、上昇方向へ右上がりに向う。しかし国家の概念としてのナショナルミニマムの最低基準のベクトルは、シビルミニマムのベクトルと同様の右上がりに向ったとしても、その上昇カーブはシビルミニマムのベクトルよりも緩やかであり、時には水平方向に向かう場合もある。

つまり憲法25条が規定する「健康で文化的な最低限度の生活」の判断レベル自体が、国と市民では異なるのである。

この理由は明らかである。日本という国家自らが福祉国家を自称するからには、ある程度の社会福祉の拡充と発展に努力はするし、しなければならない。しかし福祉国家が資本主義経済を中心にした社会体制として存在している以上、無条件で無制限に社会福祉は発展していくわけではないことを証明しているものである。

もともと社会福祉政策が存在し、発展していくのは、社会福祉援助対象者に対する社会的救済や保護の目的が、「資本主義経済」と「社会の存在と発展」に欠くことのできない賃金労働の順当な再生産を図るという意味があり、一方でその意味するものは国家独占資本主義段階に導入された技術革新下の大量生産に対する大量消費構造の造出のため、社会福祉援助対象者にも一定の購買力を与え、所得の再分配をはかり、多少なりとも格差を縮小して階級対立を緩和させようとする政策であるから、その財政配分は、当然、独占資本にもっとも有利な形がとられ、個人の権利やニーズに必ずしも対応したものとはならないのである。

よって形式的な姿勢としては、国家は社会福祉の発展やその保障を示すが、その実体と内容は極めて貧弱なものとしてしか社会に存在しない理由もここに一因があるのだ。むしろ国家と大資本は、政治的宣伝とは別に、絶えず社会福祉政策を最低限まで引き下げようとする意思をもつものと理解した方が良い。ナショナルミニマムの視点からのセーフティネットは、そういう意味でほころびの多いものにならざるを得ない。

したがって社会福祉政策の内容と水準を低下、改悪させないで、それを発展、向上さえていく為には民衆の声を代弁して、民主的な組織運動と連動して社会的圧力をかけていく必要もあるということなのだ。その規準がシビルミニマムとも言え、その運動がソーシャルワークの中のソーシャルアクションと呼ばれるものである。

しかし、そうした社会福祉運動による介入の前に国民は個人としてしなければならないことがある。

黙って座っていれば良い社会を国がつってくれるなんて言うことはありえないのである。

だからこそ言いたい。選挙に行かない人々よ、そんなの意思表示でもなんでもなく、あなた方の生活保障を自らが放棄しているんだぞ。そういう姿勢がやがて市民生活をズタズタにするんだぞ!!と。

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