ソーシャルケースワークの援助関係を形成する原則として「バイスティックの7原則」があることは今更言うまでもないが、この中の「非審判的態度の原則」について、果たして自分自身は、どこまでその態度を貫くことができるだろうかという疑問を常に持っている。

この原則は例えば罪を犯した者の、その罪まで許して許容するという意味ではないことはいうまでもないし、講義等でこの原則を教える場合に『行われた犯罪は「行為」については善悪を判断する必要があっても、それはその行為を行った人を援助するために必要な判断であり、人を裁くために判断するのではないということです』という話をしている。

罪を犯した個人を「援助する価値がある」とか「援助する価値がない」と区別していては対人援助は成立しないし、罪を犯した個人を援助することとは、その個人が自分の犯した行動を否定的部分をも含めて受け止め、深く反省する過程をも含んでおり、その結果を導く為には、人間としての個人の存在そのものまで非難し否定することはできない、という意味であり、社会福祉援助とは人を裁くものではないという意味もある。

つまりそれは「罪は愛すべきではないが、罪人は愛すことができる」もしくは「罪を憎むとしても、罪を犯した人まで憎むべきではない」という考え方に基づいたものであろう。

・・・・そのほか、非審判的態度の原則については深い意味と過程があるが、そのことを主題にしているわけではないので、ここではそれは省略する。(詳しくは、バイスティックの「ケースワークの原則」の日本語訳の本も出されているので、そちらをご覧いただきたい。)

ただ僕が常に抱いている疑問と恐れとは、本当に僕自身が、重大な罪を犯した人間の援助に関わった場合、果たしてその人自身を非難したり、審判したりすることなく対応できるかということである。

大きな事件、特に罪のない善良な市民が無差別に殺戮される事件や事故が起こるたびに考えてしまうことであるが、仮にそういう事件の犯人と何らかの形で係るとした場合、僕自身がケースワークの原則を貫くことができるのだろうか。ここに不安を持っている。

弁護士の方々もある意味、ソーシャルワーカーといってよいだろう。彼らは、重大犯罪を犯した人々も弁護しなければならない。世間からは「あのような非情な犯罪を犯した凶悪犯を弁護する気持ちが理解できない」という批判の声が挙がる。そのとき彼らは、同じように罪を憎んで人を憎まずという態度でそこに臨んでいるのだろうか。

そうであれば立派だと思うし、尊敬できるが、時として単に自らの信条を貫く為に、あるいは自己顕示のために裁判を利用しているだけではないかと思えることがある。・・・話がそれた。元に戻そう。

秋葉原でのあの無差別大量殺傷事件。罪もなく突然命を奪われたたくさんの人々を思うとき、僕の心の中には言いようのない怒りの炎が燃え上がる。気づかぬうちにその怒りは、犯罪行為に向けられるもの以上に犯人そのものに向っている。

光市の親子殺人事件、池田小学校の児童無差別殺傷事件、オウム真理教による地下鉄サリン事件、・・・数え切れないやりきれない事件の犯人を憎まずに、罪だけを憎むという気持ちにはなれないのが正直な気持ちである。そういう気持ちを持っていたり、そういう感情を持ちやすいのが自分であるという自己覚知をしているという言い訳はあまり通用しないだろう。

この矛盾を自分の中でどのように処理したらよいのだろうか。つくづく修行が足りず、人間ができていないし、社会福祉援助者として未熟であると自己嫌悪に陥るときがある。

だから休みの1日、バイスティックの「ケースワークの原則」を書棚から取り出して、読み直すということを何度か繰り返している。

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