介護保険制度以前の社会福祉制度の中心は措置制度であり、それは社会福祉サービスの多くが行政処分の結果として国民に提供されていたことを意味する。
ただし、その際のサービス利用に対する自己負担の考え方はあくまで「応能負担」であり、個人の資産を含めた負担能力に応じて決定された一部負担であり、全額公費によるサービスも珍しくはなかった。
わが国においては長らく社会福祉の分野を中心にした様々な施策やサービスについてはこの「応能負担」の考え方が中心に展開されてきたといって過言ではない。
しかし1970代にはいると公費の使われ方に対する市民の関心が高まり、公費援助を受けていない人々から利用者に対して偏見も含めた批判的意見が増えた。その中で、様々な領域で受益者負担という考え方が導入された。これが「応益負担」の始まりである。
だが社会資本整備の面から考えると「受益者」を特定することは必ずしも容易ではない。例えば一般市民生活を豊にするという道路整備がすべて受益者負担という考え方であっては困る。受益者が必ずしも道路を通した地域の「住民」とは限らないからだ。
なぜなら道路は通過するもので、そこを通って利益を得るものが本当の受益者であり、逆に幹線道路に隣接して住む住民は、交通に関わる騒音や排気ガスなどの大気汚染による健康被害など「負の影響」のみをうけて実質的利益を受けない場合があり、この場合「道路使用者」という不特定多数の受益者を確定することは現実には不可能である。馬鹿馬鹿しいことには必要性の薄い道路の整備を精査すると道路工事を受注した業者が本当の受益者であったりするなんて言う例もある。これは蛇足・・・・。
介護保険制度においては介護サービスを受ける本人が即ち「受益者」であって、これは疑いようがないこととして、この制度においては「応能負担」ではなく「応益負担」が原則とされた。
問題なのは一部のサービスには課税状況等に応じた減免制度を残してはいるが、原則が「応益負担」であるから、多くのサービス利用に際しては支払い能力が考慮されない利用負担が求められる。ないところからも搾り出すという制度である。よって絞れるものが無い人々は、制度の光が当てられることなく社会の片隅で悲惨な末路を迎えざるを得ない。
いやそんなことはない、そういうことがないように生活保護などの公的扶助制度が別にある、と国は言うが、本当にすべての社会的弱者にその制度は機能しているのか?
「保護の補足性の原理」を受給制限原則と間違って理解して運用する担当者により、それは必ずしも適切に人を救う制度になっていない現実がある。よって実際には応能負担ゆえに充分なサービス利用が阻害されている人も多い。
しかし一番の問題は、そのことではない。問題の本質は「果たして本当に介護サービス利用者が受益者なのか?」という疑問である。
介護サービスが必要な人とは様々な原因で能力障害を持つに至り、そのことから社会的不利としての生活障害を持ち、その部分に人や用具の手助けを受けるという意味であり、そのためにサービスを使うのである。
その主な部分は、食事や移動や排泄といった「生きるため」最低限必要な行為であるADL支援である。そしてそれが実現できて初めてQOL(生活の質)を高めるという支援に向うものであるが、その質といっても何も贅沢な暮らしの実現という意味ではなく、憲法25条に規定されている「健康で文化的な最低限度の生活」という具現化であり、それは社会情勢の変化、国民生活レベルの向上によって変化するものであって、より高い次元に向うことが普通である。
つまり介護サービスとは本来人間が持つ権利の実現のために必要不可欠なサービスといえるもので、それによって生命が維持されたり、「健康で文化的な最低限度の生活」が実現されることは他の分野で考えられている「受益」とは明らかに異なるもので、そういう意味での「益」と呼ばれるべき問題ではない、と考えるべきではないのか。
よって本来、社会福祉援助の領域における何らかの生活障害に対する支援は利用者の受益と考えて提供されるものではなく、日本国憲法を遵守する限りにおいては、国民の当然の権利に対する国の使命として提供される支援であり、サービスであるはずだ。そうであれば当然それは「応能負担」の原則で行われるべきものだと思う。
それゆえ介護保険制度が契約利用であるから「応益負担」が当然という考え方は間違っていると思う。
どうも社会保険方式を取り入れたことで、このあたりの考え方が歪められているように思う。そもそも介護保険制度は社会保険方式の取り入れた社会福祉制度であって、どこかの学者が言うように「社会保険になったから社会福祉ではない」という考え自体がまやかしなのである。
しかし現実には介護保険制度がそうなっている、という理屈だけで、利用者の負担能力を鑑みない負担を当たり前に考えている関係者や行政職員があまりにも多すぎる。介護保険制度設計者の罠にはまっているとしか思えない状況が、そこ・かしこに転がっている。
国(財務省)は、来年の報酬改定ではこの応益負担の率を現行の1割から2割に引き上げることによって700億円の財源を確保しようとしている。受益者の負担だから自己負担は当然で、社会情勢の変化に合わせて、その負担増は当然という考え方である。もう血の涙しか出ない高齢者も多いだろう。こんな冷たい国家に誰がしたんだ。
憲法25条の精神は紙の上だけのものだとでも言うのだろうか。
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ただし、その際のサービス利用に対する自己負担の考え方はあくまで「応能負担」であり、個人の資産を含めた負担能力に応じて決定された一部負担であり、全額公費によるサービスも珍しくはなかった。
わが国においては長らく社会福祉の分野を中心にした様々な施策やサービスについてはこの「応能負担」の考え方が中心に展開されてきたといって過言ではない。
しかし1970代にはいると公費の使われ方に対する市民の関心が高まり、公費援助を受けていない人々から利用者に対して偏見も含めた批判的意見が増えた。その中で、様々な領域で受益者負担という考え方が導入された。これが「応益負担」の始まりである。
だが社会資本整備の面から考えると「受益者」を特定することは必ずしも容易ではない。例えば一般市民生活を豊にするという道路整備がすべて受益者負担という考え方であっては困る。受益者が必ずしも道路を通した地域の「住民」とは限らないからだ。
なぜなら道路は通過するもので、そこを通って利益を得るものが本当の受益者であり、逆に幹線道路に隣接して住む住民は、交通に関わる騒音や排気ガスなどの大気汚染による健康被害など「負の影響」のみをうけて実質的利益を受けない場合があり、この場合「道路使用者」という不特定多数の受益者を確定することは現実には不可能である。馬鹿馬鹿しいことには必要性の薄い道路の整備を精査すると道路工事を受注した業者が本当の受益者であったりするなんて言う例もある。これは蛇足・・・・。
介護保険制度においては介護サービスを受ける本人が即ち「受益者」であって、これは疑いようがないこととして、この制度においては「応能負担」ではなく「応益負担」が原則とされた。
問題なのは一部のサービスには課税状況等に応じた減免制度を残してはいるが、原則が「応益負担」であるから、多くのサービス利用に際しては支払い能力が考慮されない利用負担が求められる。ないところからも搾り出すという制度である。よって絞れるものが無い人々は、制度の光が当てられることなく社会の片隅で悲惨な末路を迎えざるを得ない。
いやそんなことはない、そういうことがないように生活保護などの公的扶助制度が別にある、と国は言うが、本当にすべての社会的弱者にその制度は機能しているのか?
「保護の補足性の原理」を受給制限原則と間違って理解して運用する担当者により、それは必ずしも適切に人を救う制度になっていない現実がある。よって実際には応能負担ゆえに充分なサービス利用が阻害されている人も多い。
しかし一番の問題は、そのことではない。問題の本質は「果たして本当に介護サービス利用者が受益者なのか?」という疑問である。
介護サービスが必要な人とは様々な原因で能力障害を持つに至り、そのことから社会的不利としての生活障害を持ち、その部分に人や用具の手助けを受けるという意味であり、そのためにサービスを使うのである。
その主な部分は、食事や移動や排泄といった「生きるため」最低限必要な行為であるADL支援である。そしてそれが実現できて初めてQOL(生活の質)を高めるという支援に向うものであるが、その質といっても何も贅沢な暮らしの実現という意味ではなく、憲法25条に規定されている「健康で文化的な最低限度の生活」という具現化であり、それは社会情勢の変化、国民生活レベルの向上によって変化するものであって、より高い次元に向うことが普通である。
つまり介護サービスとは本来人間が持つ権利の実現のために必要不可欠なサービスといえるもので、それによって生命が維持されたり、「健康で文化的な最低限度の生活」が実現されることは他の分野で考えられている「受益」とは明らかに異なるもので、そういう意味での「益」と呼ばれるべき問題ではない、と考えるべきではないのか。
よって本来、社会福祉援助の領域における何らかの生活障害に対する支援は利用者の受益と考えて提供されるものではなく、日本国憲法を遵守する限りにおいては、国民の当然の権利に対する国の使命として提供される支援であり、サービスであるはずだ。そうであれば当然それは「応能負担」の原則で行われるべきものだと思う。
それゆえ介護保険制度が契約利用であるから「応益負担」が当然という考え方は間違っていると思う。
どうも社会保険方式を取り入れたことで、このあたりの考え方が歪められているように思う。そもそも介護保険制度は社会保険方式の取り入れた社会福祉制度であって、どこかの学者が言うように「社会保険になったから社会福祉ではない」という考え自体がまやかしなのである。
しかし現実には介護保険制度がそうなっている、という理屈だけで、利用者の負担能力を鑑みない負担を当たり前に考えている関係者や行政職員があまりにも多すぎる。介護保険制度設計者の罠にはまっているとしか思えない状況が、そこ・かしこに転がっている。
国(財務省)は、来年の報酬改定ではこの応益負担の率を現行の1割から2割に引き上げることによって700億円の財源を確保しようとしている。受益者の負担だから自己負担は当然で、社会情勢の変化に合わせて、その負担増は当然という考え方である。もう血の涙しか出ない高齢者も多いだろう。こんな冷たい国家に誰がしたんだ。
憲法25条の精神は紙の上だけのものだとでも言うのだろうか。
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それは絵に描いたもちなのでしょうか?
結局、官僚や政治家達は目先のことしか考えてなく、一国民がのたれ死のうが知ったこっちゃないのです。
「一将功成りて万骨枯る」
彼らにはこの意味を噛み締めて欲しいし、私達はもっと勉強し、たえず国に改善を求め続けなければならない。よりよく生きるために。
「板子一枚下は地獄」っていうのはおかしいですから。