1昨年(2006年)7月に亡くなられた吉村 昭さんの小説はほとんど読んでいる。わずかながら読んでいないものもあるが、氏が亡くなられた今となっては、それらをすべて読んでしまって氏の著書で「読んでいないもの」が無くなるのが恐くて読めないという気持ちになっている。

氏の遺作は「死顔」という短編で、まさに遺書のような作品である。

実際の兄の死を題材とした私小説の分野に属するものと思うが、この中で氏は幕末に活躍した蘭方医・佐藤泰然の「死に臨んだ態度」を例に挙げ次のように書いている。

「佐藤泰然は自らの死期が近いことを知って高額な医薬品の服薬を拒み、食物をも絶って死を迎えた。いたずらに命ながらえて周囲の者ひいては社会に負担をかけぬようにと配慮したのだ。その死を理想と思いはするが、医学の門外漢である私は、死が近づいているか否かの判断のしようがなく、それは不可能である。泰然の死は、医学者故に許される一種の自殺と言えるが、賢明な自然死であることに変わりはない。」

また氏は、葬儀で行われる死者の最期の見送りについて「棺の中の死者は多かれ少なかれ病み衰えていて、それを眼にするのは例を失しているように思える。死者も望むことではないだろうし、しかし、抵抗することもできず死顔を人の眼にさらす。」と書き、自らが死んだ後については「死は安息の刻であり、それを少しも乱されたくない」「自分の死顔を会うことの少ない親族はもとより、一般会葬者の目に触れられることは避け、二人の子と、そのつれ合い、孫達のみに限りたい。」とも書いている。

吉村さんの死生観の一端に触れることができる文章である。

吉村さんは2005年2月「舌癌」と宣告され、その後PET検査により膵臓癌も発見され翌年2月には膵臓全摘の手術を受けた。手術は成功し退院後も短篇「死顔」の推敲を続けたが、同年7月10日再入院、延命治療を拒み24日に退院、31日未明に自宅で息を引き取っている。「死顔」は推敲が完全に終わっていないまま作品として世に出た。

遺作となった「死顔」の後書きは妻である芥川賞作家の津村節子さんが書いている。それによれば吉村さんは手術前に遺書を書き、自分の死は3日間伏せ、遺体はすぐに骨にすることを言い残し、葬式は妻である津村さんと長男長女一家のみの家族葬で行うこと。死顔は親族にも見せず、香典のみならず弔花弔問も辞退することを遺言していたそうである。その意思は津村さんにより尊重され実現された。

津村さんが紹介している吉村氏の7月18日の日記に綴られた文章は感銘深いものである。

「死はこんなにあっさりと訪れてくるものなのか。急速に近づいてくることがよくわかる。ありがたいことだ。」

病み衰えて行く先に「死」という「安息の刻」があることを「ありがたいこと」と書いている気持ちは氏の偽らざる心境であったろう。

そのことは氏が若かりし頃、肺結核の末期患者として死の床にあったにも係らず左胸部の肋骨5本を切除するという当時試みられていた「胸郭成形手術」によってかろうじて死の淵から生還したことに関係があるのかもしれない。以後の「生」は吉村さんにとっては奇跡としか思えないことであり、(語弊はあるが)「儲けもの」的に考えていたのではないかと氏の作品を読むと、ところどころにそれを感ずるのである。
(この手術の成功例自体が吉村氏の1例のみといえるかもしれないもので、現在この手術法は行われていない。)

吉村さんは30日の朝、津村さんに「ビール」と言い、津村さんが吸い呑みで一口ビールを飲ませると「ああ、うまい」と言い、そのしばらく後に今度は「コーヒー」といい、それも唇を潤す程度に飲んだそうである。

しかし津村さんによればその後、吉村さんの言葉を彼女は聞いていないそうである。そのことを後書きの中で「意識ははっきりと覚めていて、じっと自分の中に篭ってしまったように見受けられた。あとから思えば、死が刻々と間近かに迫っているときを見定めていたようだ。」と書いている。吉村さんにはもう、津村さんに言葉で伝えるべきものはすべて伝えたという思いもあったのではないだろうか。信頼して安心していたから言葉はそれ以上必要なかったんだろうと思う。

そしてその夜、吉村さんは自らの手で点滴の管のつなぎ目をはずす。あわてた津村さんが娘を呼び、娘さんが管をつなぎなおしたが、吉村氏さんは今度は首の下に埋め込んでいるカテーテルポートの針を引き抜いてしまったそうである。

津村さんには聞こえなかったそうだが、娘さんは、はっきりとそのときの吉村さんの言葉を聞いている。

吉村さんの最期の言葉は「もう死ぬ。」という言葉であった。

娘さんはその言葉を聞いて泣きながら「お母さん、もういいよね。」と言い、津村さんもそれを受け入れた。24時間対応のクリニックの職員が駆けつけた際に津村さんは「このままにして下さい」と告げ、日付が変わった31日午前2時38分、吉村さんは息を引き取った。享年79歳。最後まで筆力は衰えなかった。

佐藤泰然の死に様について「その死を理想と思いはするが、医学の門外漢である私は、死が近づいているか否かの判断のしようがなく、それは不可能である。」と書いた氏ではあるが、結果的には佐藤泰然と同じように死期を自ら悟り延命措置を拒み、最後は点滴の針をも自らの手で抜いて「安息の刻」に入っていった。「いたずらに命ながらえて周囲の者ひいては社会に負担をかけぬようにと配慮」を見事に実践した最期であった。

そしてその死は吉村さんが泰然の死を「一種の自殺と言えるが、賢明な自然死であることに変わりはない。」と書いているように、自信のそれも「賢明な自然死」であることに間違いはない。

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