僕も含めてであるが、記録を書くことを苦手としている人は多いだろう。特に業務に関連する記録の書き方に悩んでいる人は多いと思う。

保健・医療・福祉の仕事に限らず、あらゆる仕事で記録というのは避けられないが、永遠のテーマは「簡潔に、わかりやすく、しかし要点は漏らさずに記録する」ということである。

先日も施設ケアプランに沿った記録の書き方をテーマに日総研の「施設ケアプランと記録の教室」という冊子に小論文を書いたが(発刊予定は確か5月だと思う)、自分自身の常日頃の記録が手本となるようなものなのかと問われれば、どうも自信がない。ただ記録の仕方の視点はある程度示すことはできたと思う・・・。

「記録の仕方」をテーマとした冊子が定期的に刊行されているということは、同じようなテーマで数多くの先輩達が、随分昔からそのことを書いているということであり、それは未だに記録の方法が確立されていないという証明でもあろう。そしてその理由は記録というものの本質が困難性を持っているということに他ならない。

なにしろ書き手と読み手は、それぞれ違う価値観や、個性をもっている。加えて読み手は一定集団内というカテゴリーに所属していても千差万別の個性とスキルを持った個人であるのだから難しくないわけがない。

これが物語のような文章を書くのであれば、書き手は勝手に自己世界を作り上げ、それに共鳴あるいは共感するカテゴリーの人々がそれを読むのであるから難しさを感じる必要はない。

それゆえ司馬遼太郎さんはかつて「小説というものの表現形式の頼もしさは、マヨネーズを作るほどの厳密さもないことである。小説というものは一般的に、当人もしくは読み手にとって気に入らない作品がありえても、出来そこないというものはありえない。」というふうに小説のもっている形式や形態の無定義・非定型という本質を語っている。

ブログにしても、特に読者を意識しているわけではなく、自分の日記、生活史として自分だけが読んでわかればよいという部分があり、これも「できそこないのブログというのはあり得ない」ということになる。

しかし記録文は、これとはまったく異なって、目的に基づいた一定形式で簡潔に書くことが求められるもので「マヨネーズを作る以上の厳密さ」を求められる部分があるものだと思う。

業務記録にしても決め事なり、連絡すべきことなり、伝達すべきことなりが、一定のグループ内の、一定ではないスキルをもった個人に等しく伝わるように書かれなければならないからである。

つまり「文章」が書けるから「業務記録」も上手く書ける、ということではないような気がしている。物語を文章で書くことと、読みやすく的確に情報が伝わる記録を書くこととは本質部分で違いがあるのかもしれない。その才能の質も違っているのではないかと最近考えている。

では業務記録を書く能力をどのように鍛えればよいのだろう。もちろんスーパーバイザーとなる指導者のアドバイスが欠かせないだろうが、その前に自分で「何事かを掴む」という漠然としたスキルアップが必要と思う。

そのためには多くの文章を読むことだ。前述したように、小説と業務記録は異なるもので、小説等の物語を読むだけでは、業務記録を書くスキルは鍛えられない部分があるように思う。では何を読むか・・?記録文学か?伝記か?

僕はその答えとして「新聞」を読むことを勧めたい。どうも記録が苦手な若い人の傾向として「新聞」を読まない人が多いように思う。ニュースを知っていてもネットのポータルサイトの見出し記事でその概要を知っているだけだったり、詳しい報道記事を読んでいない人が多い。確かに現在の日本の新聞は「(新聞の本来の理想像である)その国の英知を代表するもの」という状況にはなく「単に流行を代表しているもの」に過ぎなくなっているという側面はある。だから読む必要のないものと考えている若者も多いのかも知れない。

しかし報道の真偽や、レポートの質は別として、新聞の報道記事というのは、あらゆるカテゴリーの様々なスキルと個性を持ったすべての人々を対象に、紙面に活字として表現する方法で、その事実をありのままに伝えようとして書かれている、意味が伝わらない文章では読者からそっぽを向かれる。

これを数多く読むことで目に見えない、口で言い表せない「何事か」を掴むことができる可能性を持っていると思う。

毎朝、新聞を読む習慣を身につけるだけで、もしかしたら記録能力がアップするかもしれない。騙されたと思って実践しても損にはならないのではないだろうか・・・。

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