所要で札幌に出かけることになって、列車の中で読む本をキオスクで探していた。

そのとき「像の背中」というタイトルが気になって何気なく買った。

作者は秋元 康。知らない名前ではないが作家としての認知は皆無で、むしろ作詞家としての印象が強い。美空ひばりの「川の流れのように」も彼の作詞だろう。それより有名なのは放送作家としての活躍で「オールナイトフジ」や「夕焼けニャンニャン」を手がけ、のちに、おニュン子クラブのメンバーと結婚したことで知っている人が多いかもしれない。

だから特に期待したわけではなく、車中の暇つぶし程度の意味で買った本にしか過ぎない。しかし読む進みにつれ引き込まれた。

内容は40代の主人公が、ある日突然、肺がんの全身転移による末期がんであることがわかり、医師から余命半年であることを告げられる。その日から主人公が延命治療を拒否して亡くなる瞬間までを書いたフィクションである。

余命半年という告知の是非を問うものではなく、余命半年と告げられた主人公が、その後、死の瞬間までどう向かい合って生きたかという内容であり、命の期限を知ったことで、延命治療を行わないという選択のもとで彼が「できたこと」が静かな筆で書かれている。

作者は長編小説を始めて執筆したということだが、なかなかの才能である。この小説は役所 広司主演で映画化もされているとのことで知っている人も多いのかもしれないが、僕は始めて読んだ。

詳しい内容は本を買って読んでもらいたいが、告知の意味というもの、命の期限を知ったことで始めてできること、死期が確実になったときの本人が取りうる選択肢について考えさせられた。

僕自身の立場であったら、どんなにその期限が短くあろうと、やはり告知してほしいと思う。そうでなければ「やれることを残したまま」ある日突然、その日を迎えるほうがショックが大きいと思う。

しかし一方、僕は看取り介護の講演などでは、死をこの施設で迎えたいということと、今まさに看取り介護の時期であり、近い将来確実に死が訪れるであろうことを利用者に告げることは同じことではないし、死の告知に繋がる看取り介護の同意を本人から頂くことは望ましいこととは言えないのではないかと問題提起している。

これは大きな矛盾であり、自分と他人では扱いが違って良いのかという疑問が当然出されと思うが、決して自分と他者とを別に考えているわけではない。

死に対する観念や告知についての思いが、今の日本人は世代によってかなり違うのではないかという思いがある。我々の世代では告知はむしろ当たり前で、自分の知る権利として「命の期限」が分かっているなら知らせてほしいし、知らせるべきだと思っている人が多いのではないか。

しかし我々より、もっと前の世代の人々、団塊の世代より、もっと先に生まれた人々の価値観までそうであるのかというと首を傾げる。今、高齢者施設で「看取り介護」の対象となる方々は、告知に対し、我々の世代より免疫力が少ない世代であるように感じている。

だから僕は亡くなれた作家・吉村昭さんの言葉を借りて「命の期限」を告知することに関して

・日本人と欧米人は死に対する観念が異なる
・患者は激しい精神的衝撃を受ける
・あくまで隠し通して死を迎えたほうが好ましいのではないか
・それを情緒的といわれても良い、それは私たち日本人に染み付いたものだ

という問題提起をしている。もちろん個人の価値観や希望、隠されたニーズまでその思いを見つけ出す努力は必要だが、こと告知に関する問題と、その感じ方は「自分の価値観」だけでは判断できないし、もっと国民的論が広く行われるべきだと思う。

このことを決してタブー視してはいけない。

例え、告知を望んでいる人でも、告知のショックによるデメリットが皆無というわけではないし、実際に告知をきっかけに大きな精神的ショックを抱えたまま、悶々として最期の瞬間を迎え、告知しなかった方が良かったという結果の方が居られるのも事実である。

人間とは、そういうデリケートで決して強くない存在である。予定や望んだこと全てを受け入れられるほど精神構造とは単純ではないのだ。

しかしそのことを考えて、自分なりに答えを探すことができるのも人間である。最期に答えが正しかったのか、間違っていたのかを判断できるのも自分自身しかいないかもしれない。

答えの出ない迷路の中を、答えを探して歩き続けるのも僕らの責任だと思っている。そのことだけは一つの真実である。

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