終わりのない始まりはない。いつ終わるかは分からないが、始まりは終幕へのプロローグでもある。

このブログも2005年11月に立ち上げているので、それがスタートであり、このブログの終焉までのカウントダウンでもある。ちょうど今月がまる2年目だ。ほとんど平日は毎日のように更新をしている。よく書くことがあるものだと自分でも思う。だから時には他人からみればどうでもよいことが書いているかもしれない。

でもそれらはすべて僕が書きたいことであり、書きたくないことを無理に書いている日は一日とてない。僕にとってはすべて意味のある記事で、すべて僕にとっての真実である。

ところで、僕がよく読んでいる知り合いの方のブログの最近の記事のコメントで、ある意見を「全然わかってない輩がいるのが情けない…」と否定して批判する内容を見た。

そのブログの内容に関してではない、まったく別な問題に関してのもので、内容からして僕がブログや表の掲示板に書いている日本介護支援専門員協会の批判と対応に関しての意見を標的にしたものだろうと思う。

相手を見下して一方的に「輩」と蔑まれる覚えもないし、他人の意見を読んで、その人自身が「情けなく」思う必要もないだろうと思うが、どちらにしても、そういう関係のない場所で他人の批判をして良い気持ちになっている人間は信用できない。

そのコメントを書いた人間は自分だけが全てを「わかっている」と思って、自分の意見や価値観だけが正しいと思っているんだろう。たいしたものである。

ただ間接的ともいえない別な場所でそうした批判を書いているのはなんのつもりなんだろうか。意見はいろいろあってよいはずであるのに・・・。京都の出版関係者で言論についてよくわかっている立場だそうだが、そうであれば余計にたちが悪く感ずる。

こういう人間にとっては、書き続けられているブログの内容がすべて正しくないと(というより自分の意見と同じでないと)「わかっていない意見で有害」ということになるんだろう。僕のブログは大多数の意見に阿(おもね)るものではないから、かなり気に入らないだろう。正解を書いているわけではなく僕自身の心のありようを書いているからだ。

いつか書いたことがあるが、このブログに特に目的があるわけではない。書きたいことを無責任に書いている。

たまにコメントの中で、僕のブログで「勉強させもらっています」というようなありがたい言葉をいただくことがあるが、人を教育したり、訓戒をたれたりする目的を持っているわけではない。自分の考えをできるだけ素直に表現すること自体が目的であり、時には独りよがりの考えであっても、自分の気持ちをストレートに書いている。

このことが負担になったらやめるだけの話である。

時にはブログコメントに「その考え方は違う」という書き込みもあるが、世の中の全ての人が納得できる説明を書いているわけではない。違う意見があって大いに結構である。正解だけを求めて何かを書いているわけでもない。

なぜなら正解とは真実ではないことも多いからである。

ましてや人を説得しようとして書いているわけではない。

その時々の自分の「心のありよう」を文字にしているだけである。だから時には過激な表現で文字を躍らせるときがある。そうすることによって自分自身の心の中の「炎」の燃え場所を探している。

それをいつまで続けるか、現時点では考えてもいないし考えられもしない。しかし終わりの場面では、不可抗力ではなく、僕自身の意思によって幕を引きたいとは思っている。

その日がいつになるかはわからないが、例えこのブログを読んでくれる方が一人もいなくなっても書きたいことがあれば書き続けるだろう。そして終幕は「静かに」と思っている。

そのときにカーテンコールを求めているわけではないのだ。

介護・福祉情報掲示板(表板)

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