本を読むのが好きである。
各地から講演等に招かれて移動する場合も、移動中に寝てしまうより、できるだけ多くの本を読むようにしている。(自分の講演のことを考えたり、資料を読んでいることはまずない。)
だから自分の運転で移動する道内の出張より、飛行機で移動する道外出張の際の移動時間は貴重な読書時間である。
それは自分の知識を増やすとか何か目的あることではなく、単純に読書が好きだからであり、忙しい日常で本を読む時間が休日でもなかなか作れないから、出張などの移動時間は読書の時間として貴重になってくるのである。文字中毒かもしれない。
読むのは小説が多いが、そのジャンルは様々である。ただ読書という趣味は、僕の本業にまるで意味がないことではない。ソーシャルワーカーには自己覚知が必要であるが(参照;面接の技法2〜自己覚知について)同時に自分の価値観を意識して援助に関わるということは、人々の多様な価値観を認めるということである。
そのとき、どのような価値観を人々が持つに至るのかを理解するためには、ある程度の人生経験が必要だし、人生観が関連してくる。しかし残念ながら、我々が経験できる人生は自分ひとりの、一つの人生でしかないし、そこから生まれる人生観も狭いものだろう。
しかし小説を沢山読むことによって、様々な登場人物の人生に、物語を通して触れることができる。実際に経験できることではないけれど行間、文字間から様々な生き様や価値観を感じ取ることができる。
そういう意味でも本を読んで自分なりに感じ取るという行為が、今の自分に様々な影響を与えているし、それらが全て糧になっていると思う。まあ究極的には、そんなことを感じる前に好きだから読んでいるだけであることは否定できない。
今までに何冊の本を読んだか数え切れないし、その中から好きな本を一つだけ選べてといっても無理である。その時々に思い入れの深い本がある。そんな中から、今日は印象深い1冊を紹介したい。
「白夜を旅する人々」は三浦哲郎の私小説的長編小説である。
短編小説の名手といわれた三浦は、芥川賞受賞作の名作「忍ぶ川」を書いている。これも心の琴線に触れる名著と思う。
また南部領八戸藩を舞台にした天明の大飢饉を書いた作品「おろおろ草子」では、極限状況に置かれた人間の姿を赤裸々にしている。谷崎潤一郎賞受賞という冠がなくとも、引き入れられる名作である。
しかし「白夜を旅する人々」を始めて読んだときのショック、これは今までに経験したことがないものであった。物語は重たいテーマなのだが、決して読後感が悲壮な感覚だけで終わらないのは何故なんだろうか。そのことを含めて考えてみた。
「白夜を旅する人々」を三浦の自伝であると紹介している文章があるが、僕はこの物語を自伝というのには賛成しかねる。それは間違いと思う。なぜなら物語の中に描かれているのは、三浦の生まれたときから幼少期まででしかなく、三浦自信の伝記とはなりえないからである。
しかしこの小説は事実に基づく私小説ではある。その描く内容は、血族(あえて家族とは書かない)としての三浦の、その親や同胞達に背負わされた宿命。その中で生きる人々の何気ない日常と挫折、絶望、それぞれの運命。悪い人間が誰一人いるわけではないのに、普通に生きている普通の人々が、知らず知らずのうちに悲惨な運命の渦に巻き込まれていく・・・。
小説の構成としては非常に重いし、読むものにも負担感を感じさせてもおかしくないのに、悲惨な読後感だけではなく、ある意味さわやかさを伴う感動を残すのは何故だろうか。このことをカタルシスと表現している人がいるが、僕はカタルシスとも違うような気がしている。
それは読んだ者にしか感じ取れないものだろうから、是非一度、興味のある方はこの小説を読んでもらいたいが、この小説の内容を少し紹介しながら、僕自身の感銘の気持ちを伝えたいと思う。長くなったので、続編を明日書きたい。(明日に続く)
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各地から講演等に招かれて移動する場合も、移動中に寝てしまうより、できるだけ多くの本を読むようにしている。(自分の講演のことを考えたり、資料を読んでいることはまずない。)
だから自分の運転で移動する道内の出張より、飛行機で移動する道外出張の際の移動時間は貴重な読書時間である。
それは自分の知識を増やすとか何か目的あることではなく、単純に読書が好きだからであり、忙しい日常で本を読む時間が休日でもなかなか作れないから、出張などの移動時間は読書の時間として貴重になってくるのである。文字中毒かもしれない。
読むのは小説が多いが、そのジャンルは様々である。ただ読書という趣味は、僕の本業にまるで意味がないことではない。ソーシャルワーカーには自己覚知が必要であるが(参照;面接の技法2〜自己覚知について)同時に自分の価値観を意識して援助に関わるということは、人々の多様な価値観を認めるということである。
そのとき、どのような価値観を人々が持つに至るのかを理解するためには、ある程度の人生経験が必要だし、人生観が関連してくる。しかし残念ながら、我々が経験できる人生は自分ひとりの、一つの人生でしかないし、そこから生まれる人生観も狭いものだろう。
しかし小説を沢山読むことによって、様々な登場人物の人生に、物語を通して触れることができる。実際に経験できることではないけれど行間、文字間から様々な生き様や価値観を感じ取ることができる。
そういう意味でも本を読んで自分なりに感じ取るという行為が、今の自分に様々な影響を与えているし、それらが全て糧になっていると思う。まあ究極的には、そんなことを感じる前に好きだから読んでいるだけであることは否定できない。
今までに何冊の本を読んだか数え切れないし、その中から好きな本を一つだけ選べてといっても無理である。その時々に思い入れの深い本がある。そんな中から、今日は印象深い1冊を紹介したい。
「白夜を旅する人々」は三浦哲郎の私小説的長編小説である。
短編小説の名手といわれた三浦は、芥川賞受賞作の名作「忍ぶ川」を書いている。これも心の琴線に触れる名著と思う。
また南部領八戸藩を舞台にした天明の大飢饉を書いた作品「おろおろ草子」では、極限状況に置かれた人間の姿を赤裸々にしている。谷崎潤一郎賞受賞という冠がなくとも、引き入れられる名作である。
しかし「白夜を旅する人々」を始めて読んだときのショック、これは今までに経験したことがないものであった。物語は重たいテーマなのだが、決して読後感が悲壮な感覚だけで終わらないのは何故なんだろうか。そのことを含めて考えてみた。
「白夜を旅する人々」を三浦の自伝であると紹介している文章があるが、僕はこの物語を自伝というのには賛成しかねる。それは間違いと思う。なぜなら物語の中に描かれているのは、三浦の生まれたときから幼少期まででしかなく、三浦自信の伝記とはなりえないからである。
しかしこの小説は事実に基づく私小説ではある。その描く内容は、血族(あえて家族とは書かない)としての三浦の、その親や同胞達に背負わされた宿命。その中で生きる人々の何気ない日常と挫折、絶望、それぞれの運命。悪い人間が誰一人いるわけではないのに、普通に生きている普通の人々が、知らず知らずのうちに悲惨な運命の渦に巻き込まれていく・・・。
小説の構成としては非常に重いし、読むものにも負担感を感じさせてもおかしくないのに、悲惨な読後感だけではなく、ある意味さわやかさを伴う感動を残すのは何故だろうか。このことをカタルシスと表現している人がいるが、僕はカタルシスとも違うような気がしている。
それは読んだ者にしか感じ取れないものだろうから、是非一度、興味のある方はこの小説を読んでもらいたいが、この小説の内容を少し紹介しながら、僕自身の感銘の気持ちを伝えたいと思う。長くなったので、続編を明日書きたい。(明日に続く)
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感動の完結編。
