認知症高齢者のケアの方法について「寄り添うケア」という言い方をすることが多くなった。

しかしその表現や方法に対して「そんな抽象的で具体性に欠ける表現で認知症ケアを語るな」という意見の持ち主がいる。

そういった主張をする方々が指摘する点は、認知症ケアは脳科学と精神医療、介護の3つが組み合わさってはじめて実効性がある支援となるもので、脳科学や精神医療を無視して介護の情緒的関わりだけで考えても問題解決にはならないということである。

そういう意味と指摘であればその通りであろうと思え理解できるのであるが、しかし一方的に講演などで壇上から「寄り添うケアなんていう抽象的な表現はやめましょう」と言われてしまえば、それでは我々が現場で実践してきた生活支援型ケア=寄り添うケア、なんていうのは認知症高齢者の介護に必要がないものという誤解を生むと思う。

毒舌だかなんだか知らないが、名のある人が勢いにまかせて無責任な発言をすることはいかがなものかと感じる。もう少し丁寧な説明が必要ではないだろうか。

認知症ケアの基盤を3層構造で考えるべきという指摘はその通りと思うが、認知症のワクチン開発が現実味を帯びてきているといっても、実際には今、認知症を予防したり治療したりする薬もワクチンも今現在はなく、中核症状に届く治療法はない。

アリセプトは進行を遅らせることのできると言う意味で、適応の方を早期に発見する為に専門医への早期受診は大切であるが、だからといって周辺症状に正しく適応する方法としての「寄り添うケア」を否定してもはじまらない。

不安を助長させず、生活習慣を大切にしながらできることを支援することによって症状を緩和する具体的な方法が抽象的だといわれる意味が分からない。

もちろん一部では、この寄り添ケアというものを理解しておらず、つきまとっているだけのサービスしかできていないところもあるし、具体的な方法を説明できない人もいる。

しかしサービスの質の高いケアを実践している関係者は、この寄り添うケアというものを、その方の生活習慣から問題の所在やできること、したいことを見出して、無理しないでできる部分を支援することで混乱を防ぎ、周辺症状を悪化、拡大することなく、むしろ精神的な安定を取り戻す成果を挙げている。まさに認知症の周辺症状に手が届くのはケアである、という実践であり、このことを単に経験と勘という表現をしてもらっても困る。

周辺症状のどの部分に手が届くかということを理解して、その届く部分の方法論を「生活支援型ケア」という具体的方法として作り上げたスタイルを「寄り添うケア」とわかりやすく表現しているだけであることを理解すべきである。

精神医療は、そうした介護の手が届く部分と、そうでない部分を明確に区分して、認知症高齢者の関わり方を専門的立場からカウンセリングの視点も含めて専門的立場から助言・指導されればベストであるが、現実にはそこまでうまく機能していないし、精神科医の認知症理解にも個人差が大きい。

生活のないところで認知症の方々の周辺症状は良くならないという理解も必要である。周辺症状を抑えることが行動抑制であってはならないという基本的な疑問から生活支援型ケアは出発していることも大事な視点であるのだ。

同時に情緒的なサービスは科学にならないという指摘もあるが、本来、人に対する介護サービスは情緒抜きでは考えられないものである。

情緒が入りこむ余地のないものが科学であり、それからしかエビデンスは生まれない、と考えるのであれば、人に関するサービスにはいつまでもエビデンスを作り出せないかもしれない。しかし、あの人が今混乱している原因は何、という部分をその方自身の生活暦と生活習慣と絡めて理解する過程で、情緒的に関わる作業は不可欠である。

寄り添うケアを観念論と考え、経験や勘の産物と考える人々は、同時に「その人らしいケア」というのも観念的で具体性に欠ける勘に頼った表現だという。

しかし介護サービスに関わる人々が、向かい合っている人々の「その人らしさ」を顧慮しないとしたら、対人援助とはなんと殺伐としたものになってしまうのだろう。「その人らしさ」を見つけ出す道具の一つとしてアセスメントを行っているんではないのだろうか。

「その人らしさ」を見つけ出す為に情緒的に関わる方法が駄目というなら、そういう現場に僕は長くは居たくないと思うであろう。

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