先日、父の1周忌法要を実家で行った。母が急病で倒れたため、長男である僕が主催する形となったが、法要に参加するのは、弟夫妻以外は、父の兄弟姉妹が中心である。

亡父は10人兄弟の長男であり80歳で亡くなったが、その弟や妹達も、当然のことながら随分年をとったと感じた。まず法要の後の供養膳の際に、飲むお酒の量が、むかし祖父や祖母の法要のときとは違って随分減っている。また畳に膝を折って座れないため、椅子が必要な人も複数いる。

話題も年金や病気、孫のことで盛り上がる。年月の流れを、こんなところで感じていた。

さて、そういう状況のように親戚や知人が高齢化しているということは、それらの人たちが医療機関に入院したり、施設に入所したりすることもあって、個人的なお見舞いや面会のために、僕自身が医療機関や施設を訪ねる時がたまにある、という状況が増えている。

そういう時は、福祉関係者としての意識を捨てて、なるべく家族や知人として振舞おうと思うのだが、なかなかそうもいかない。あの看護師の言葉遣いは問題あるな、とか、あの介護職員の対応は違うだろうとか、窓口の職員もチームに介護チームの一員であるという意識の薄い施設だなとか、いろいろな見方をしてしまう。

しかし、いくら専門知識を持っているからといって、他の施設の運営上の問題に直接口を出すなんていうことはないし、介護サービスの方法に意見するということもない。ただ感じている、思っている、というだけで、福祉関係の職業に就いている、ということも気取られないように注意はしている。しかし、時には少しは物を言いたくなることもある。

先日、ある施設に親戚が入所したということで、たまたま仕事で近くまで行ったので、挨拶に寄ってみた。僕一人ではなく、その方の家族とご一緒して、施設内で取り留めのない話をして帰ったのだが、その最中、ホールで、ある一人の女性利用者の方が手に荷物を持って「帰りたいのでバスの停留所の場所を教えて」と話しかけられた。

当然、一目見て、入所利用者の方で、認知症があって帰宅願望から発言していることは充分理解できた。しかし、僕が勝手に対応しても施設の方々に悪いだろうと思って「バス停ですか、僕遠くから来ている者で、この辺の地理に詳しくないものですから、分かる方を連れてきますね。」といって、近くにいる介護職員に対応を求めるべく声をかけにいった。

ところがである。そこの職員の言うことによれば「あの人は、いつものことだから放っておいて下さって構いません。問題ありませんから。」「でも少し話を聞いてあげた方が良いのではないですか」「大丈夫です。それに今、それより優先的にしなければならないことがありますから、あの人に関わってられないんです。」

介護の現場の職員が常に忙しいことくらい承知している。しかし今目の前で起こっていることは介護職員にとって日常茶飯事で特別なことではないと言っても、当該利用者の立場から見れば、常にバスに乗って帰りたい気持ちを訴え続けているのに、誰も真剣に耳を傾けてくれない、心を寄り添わせてくれないということではないのか。

こうした帰宅願望を訴える人の心に寄り添う対応が、対応の優先順位が低いことだという意識がある職場だから、その施設では、いつも帰宅願望を訴え続けるような混乱と不安を持っている人がいる、いうことではないのか。

帰宅願望が訴えだけで、実際に外に出ようとしたり、危険行動がないから問題ないと考えるのは間違いである。

そうした不安を抱え続ける方の心の中身をしっかり把握して、不安を解消する為にきちんと介護者の耳と心を傾けることが必要な支援であり、それが「寄り添うケア」の原点である。

このような状況を「いつものことだし問題ない」と考えるような麻痺した感覚が、普通の高齢者を混乱の世界に引き込み認知症を作り出してしまうし、混乱している認知症高齢者により添えないから、周辺症状が改善しない人たちが誰も聞いてくれない魂の叫びからパニックが生まれるのだ。

優先順位のつけ方が間違ってはいないか、もっとケアの原点を見つめなおしてほしい。

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