逆デイサービスという取組があるのをご存知だろうか。
その名称が、このサービスの意味を正しく現しているかどうかは別な問題であるが、そのサービスとは、施設入所者が、日中だけ施設から離れた民家などに通って日中を過ごす取り組みのことであり、居宅サービスではなく、あくまで施設サービスの方法論の一つである。
施設という大きな器における生活支援だけにとどまらず、施設利用者が施設から離れて地域の中にある民家等で小規模対応のケアサービスを展開するもので、施設に機能に一部を地域に持っていって、ユニットケアのメリットを生かした馴染みの関係のケアを日中に限定して提供するという方法である。
その取り組みにおける効果として、大きな施設ではできなかった脱集団処遇という点や、地域と密着した生活を継続するという部分は様々に紹介されており、一つの試みとしては非常に面白いし、可能性を秘めたものであると考えている。
しかしである。本当にこのようなサービスが必要かということになると、やや首を傾げたくなる。それならいっそ、施設自体を分割してサテライトの小規模施設を地域に作って、そこで小集団で過ごし、ケアサービスを展開した方がより暮らしとしてのしつらえは整うのではないか?
特にこのサービスを行っているある施設の取り組みの報告論文を読み、大いなる違和感を持った。
九州の某特養の副施設長という肩書きの方が書いてある論文において、この逆デイサービスから得られた教訓という部分がある。それは4点挙げられているが、列挙されているもの、ほとんどは逆デイサービスのメリットではなく、小規模対応ケアのメリットに過ぎない。そして一番の問題点は1点目に挙げられている教訓である。
1、施設という空間は非日常的な空間であり、そこで完結している生活は、人間本来の生活とは明らかに違うということ。
こう書かれている。馬鹿も休み休み言え!!と言いたい。そういう偏見を持った職員が施設サービスに携わっているから、この国のケアはいつまでも低いところに流れていってしまうのである。
高齢化が進行する現在社会では、高齢者の身体状況や精神状況、生活環境も様々である。高齢者の住まう場所もそれに合わせて多様化している。家族介護では全て抱えきれず、居宅サービスでありない部分を補う施設サービスとは、すでに多種多様な生活課題を抱える高齢者の「住まう場所」の一形態に過ぎない。
だからそこでサービスを提供する側は、そこで住まう人々が、その人らしい生活が実現できるよう最大限の努力をして、そこがそれらの人々にとっての家庭としてくつろげる場所にする努力が必要であり、そうした努力の結果としての「住まう場所」が非日常であってはいけないし、そうであるわけがない。
ところがこの逆デイサービスを行う施設の職員の感覚は、自分達が現にサービスを展開する施設は非日常であると言って、逆デイサービスで活動する場所こそ日常だという。それっておかしくないか?
そもそも通常の生活を考えてみろ。暮らしとしての場所が日中と夜で違っているということがあり得るのか?あり得ない。暮らしの場所は、人の住む場所で、昼だけ過ごす場所でも、夜だけ寝に帰る場所でもない。きちんと個人に目を向けたケアを行うことができれば、施設はその人々の暮らしの場所である。そして、そこから日常的に地域に出かける機会があるってことは大事で、日中その場所からいつもはなれていなければならない非日常であるなんてとんでもない論理である。
自分らの施設が非日常と感じるような不自然な生活であるなら、まずそこを変える取組が必要で、逆デイサービスとして、そこから日中のみ脱出することが解決策では、こんな貧困な方法論はない。
非日常という言葉の意味、言葉の使い方を間違っている。むしろ生活の本拠が日中と夜間で違ってしまうことの方が「非日常」である。
逆デイサービスの効果は、あくまでユニットケアが展開しやすい方法論の一つであり、逆デイサービスでしか実現できない効果ではない。むしろ生活空間が日中と夜間で分離してしまうというデメリットが生じる対象者が出てくるだろう。
事業の評価を行うのは良いが、おかしな評価は介護サービスへの偏見と誤解を助長する結果にしかならない。
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その名称が、このサービスの意味を正しく現しているかどうかは別な問題であるが、そのサービスとは、施設入所者が、日中だけ施設から離れた民家などに通って日中を過ごす取り組みのことであり、居宅サービスではなく、あくまで施設サービスの方法論の一つである。
施設という大きな器における生活支援だけにとどまらず、施設利用者が施設から離れて地域の中にある民家等で小規模対応のケアサービスを展開するもので、施設に機能に一部を地域に持っていって、ユニットケアのメリットを生かした馴染みの関係のケアを日中に限定して提供するという方法である。
その取り組みにおける効果として、大きな施設ではできなかった脱集団処遇という点や、地域と密着した生活を継続するという部分は様々に紹介されており、一つの試みとしては非常に面白いし、可能性を秘めたものであると考えている。
しかしである。本当にこのようなサービスが必要かということになると、やや首を傾げたくなる。それならいっそ、施設自体を分割してサテライトの小規模施設を地域に作って、そこで小集団で過ごし、ケアサービスを展開した方がより暮らしとしてのしつらえは整うのではないか?
特にこのサービスを行っているある施設の取り組みの報告論文を読み、大いなる違和感を持った。
九州の某特養の副施設長という肩書きの方が書いてある論文において、この逆デイサービスから得られた教訓という部分がある。それは4点挙げられているが、列挙されているもの、ほとんどは逆デイサービスのメリットではなく、小規模対応ケアのメリットに過ぎない。そして一番の問題点は1点目に挙げられている教訓である。
1、施設という空間は非日常的な空間であり、そこで完結している生活は、人間本来の生活とは明らかに違うということ。
こう書かれている。馬鹿も休み休み言え!!と言いたい。そういう偏見を持った職員が施設サービスに携わっているから、この国のケアはいつまでも低いところに流れていってしまうのである。
高齢化が進行する現在社会では、高齢者の身体状況や精神状況、生活環境も様々である。高齢者の住まう場所もそれに合わせて多様化している。家族介護では全て抱えきれず、居宅サービスでありない部分を補う施設サービスとは、すでに多種多様な生活課題を抱える高齢者の「住まう場所」の一形態に過ぎない。
だからそこでサービスを提供する側は、そこで住まう人々が、その人らしい生活が実現できるよう最大限の努力をして、そこがそれらの人々にとっての家庭としてくつろげる場所にする努力が必要であり、そうした努力の結果としての「住まう場所」が非日常であってはいけないし、そうであるわけがない。
ところがこの逆デイサービスを行う施設の職員の感覚は、自分達が現にサービスを展開する施設は非日常であると言って、逆デイサービスで活動する場所こそ日常だという。それっておかしくないか?
そもそも通常の生活を考えてみろ。暮らしとしての場所が日中と夜で違っているということがあり得るのか?あり得ない。暮らしの場所は、人の住む場所で、昼だけ過ごす場所でも、夜だけ寝に帰る場所でもない。きちんと個人に目を向けたケアを行うことができれば、施設はその人々の暮らしの場所である。そして、そこから日常的に地域に出かける機会があるってことは大事で、日中その場所からいつもはなれていなければならない非日常であるなんてとんでもない論理である。
自分らの施設が非日常と感じるような不自然な生活であるなら、まずそこを変える取組が必要で、逆デイサービスとして、そこから日中のみ脱出することが解決策では、こんな貧困な方法論はない。
非日常という言葉の意味、言葉の使い方を間違っている。むしろ生活の本拠が日中と夜間で違ってしまうことの方が「非日常」である。
逆デイサービスの効果は、あくまでユニットケアが展開しやすい方法論の一つであり、逆デイサービスでしか実現できない効果ではない。むしろ生活空間が日中と夜間で分離してしまうというデメリットが生じる対象者が出てくるだろう。
事業の評価を行うのは良いが、おかしな評価は介護サービスへの偏見と誤解を助長する結果にしかならない。
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感動の完結編。
