平等という言葉を知らない人はいないし、誰もが様々な場面で使う言葉であろう。しかし悪平等という言葉を聴いたのは、この業界に入る直前のことであった。

何でもかんでも同じではいけないという意味だろうが、その時は、言葉の意味が良く分からなかった。その後、特養の相談・援助業務を通じて、その意味を自分なりに理解するようになった。

介護サービスとは、その時々で支援する方法や頻度が変化するという特徴を持つ。根本部分はケアプランに落として実施できるが、それは計画上の基本サービス事項であるに過ぎず、その人の体調や気分、例えば風邪気味だとか、熱っぽいとかいった身体状況にも左右され変化がある。

つまり身体介護の量(時間)は同じ人に対してでも、その時々で変化があるし、精神的ケアという面でも、常に傍らで見守ったり、会話の時間を多く持つ必要がある人がいたりして一定ではない。

そのとき、我々は、必要な関わりを、必要な人に対して行う。

介護サービスという目に見えないサービスで言えば、そのとき、さほど支援の量が必要とされない状況の人には、サービス量が減る結果になることがある。

例えば、同じ要介護3の人でも、Aさんには1日の大半見守りや、声かけが必要で対応を行うが、Bさんは、さほどサービス時間が必要でなく、身体介護としての直接的支援以外の時間、声かけや見守りをほとんど行なわなくてよい、という場合がある。

そしてそれは時として、非常に大きなサービス時間の差となって現れることがある。そのとき、同じ費用と契約内容であるのにも関わらず、介護の現場で決定的にサービス提供時間が違うのは「平等」の精神に反して問題があるから、Aさんに行っている46時中のサービスというものは全員に行えないのだから、そこまで関わることはない、できないという意見があるとする。

しかしこれこそ間違いであり、そのときにサービスの量や支援の時間が大きな違いが生じているとしても、それは平等の精神に反しないという理解が必要である。

今必要なサービスをAさんに行っている結果がその状況であって、Bさんに対してはAさんほどのサービス提供時間がなかったとしても、それは今現在Bさんには、さほどのサービスが必要ではないという結果であり、仮にBさんが、現在のAさんと同じ状況に置かれたら、我々はやはり今Aさんに行っているのと同じような支援をBさんにも行います、というのが真の平等である。

仮にBさんが、現在のAさんと同じ状況に置かれた状況となったにもかかわらず、そのとき、Aさんに行っているのと同じような支援をBさんに行わないで放っておくような状況が生じた場合、はじめてそれは不平等ということになる。

つまり介護サービスというものは、目に見えないサービスで、人間生活に深く関わるものであるから、いつも同じではないという意味は、誰にでも一定の量のサービスを提供しておれば良い、という問題でもないということだ。

そこを取り違えて、すべて同じ場面でのサービス量の平等を求めることを我々は「悪平等の弊害」と呼ぶものである。

何かを行おうとしたとき、できることより、できないことから発想する人々がいる。そのとき良く使われる理由として「そんなことを全ての人に行うのは無理だ」というものがある。しかし全ての人に、それが求められるとは限らないし、今できることからはじめて、必要な人に必要なサービスを行なうことを積み上げながら、介護サービスの品質を向上させていくという発想が必要で、全員にできないことは低いレベルで均して質の低いサービスを均等に提供する、という発想こそ悪平等の弊害そのものであろう。

つまり悪平等とは、サービスを受ける側の視点に立っているかのように装って、実はサービス提供側の都合にしか過ぎない論理であるともいえるものである。

介護・福祉情報掲示板(表板)

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