以前、自己決定の原則の勝手な解釈にまつわる問題について書いたことがある(参照:自己決定とは何か1〜バイステックの7原則を都合よく解釈してはならない )ので、今回はあえてタイトルに続をつけた。しかし内容としては違う問題を考えてみる。

自己決定が大切だという。高齢者であっても、障害が重たくても、認知症があっても、自己決定できる部分は保障しろと言われる。その通りであろう。

しかし自己決定の名の下に、実は都合よく何もしない、自己責任に転嫁して必要な働きかけが行われないということがないのか。そのことは常に自問自答しなければならない。自己決定の原則とは、支援が必要な人々の権利と尊厳を保障するためにあるもので、そのことが守られない自己決定など、単なる自己責任というものへの丸投げ、責任転嫁である。

介護施設などでは、生活リハビリの一環として、あるいは心身活性化のために、利用者を活動の場に誘い出すという機会がしばしばある。それは例えばレクリエーションであったり、ボランティアの演芸を観賞する行事であったり、療育音楽であったり、回想法であったり、様々である。そして行われることに対する好みの度合いは様々なので、当然、それには出たくない、参加したくない、という希望は保障される必要がある。

しかし誘って「嫌だ、出たくない」「このまま寝ていた方が良い」という人が必ずいるが、その発する言葉の意味は人それぞれである。本当に出たくない、参加したくない人もいれば、なんとなく億劫だからそう言ってはみたけど、もっと誘ってくれれば出るのに、とか、最初から否定的な言葉から入るのが癖の人もいる。

そうした個人差、瞬間瞬間の気分、その日の機嫌、そうしたものに配慮のない自己決定の保障など、単なる介護放棄である。

参加しない自由もある、という人がいる。それもその通りであろう。しかし「参加しない自由」が保障される唯一絶対の前提条件は「参加できる自由」がきちんと保障されていることである。参加することに制限があって、参加しない自由だけが認められるのは、単に「参加できない不自由」を助長させているだけに過ぎない。

参加できる自由の中には、自由な選択肢が多様にあるということも含まれる。メニューが単一で、そこに参加しない人は、他に参加できる選択肢がない、なんていうのは制限ある参加、参加できない不自由そのものである。

だから介護施設で、引きこもりを防いで活動に参加する動機付けを作るためには、参加できる選択肢を広げる必要があるということだ。この中身を個人個人の生活習慣や、好み、嗜好から考え出す必要があるのだ。

そこで介護施設に様々な多職種がいるというメリットは、単に専門職としてそれぞれの領域をカバーするというだけではなく、それぞれの違った専門的立場、職種から全体のサービスメニューを考えて、広く意見を出せるという可能性としても考えるべきである。

そして介護職員に男性が増えている点も、男性の視点から見たサービスの多様化に貢献できる重要な要素であるし、職員が一杯いる大規模施設は、デメリットばかりでなく、たくさんの価値観やアイディアの集合体としてみれば無限の可能性があるのだ。

自己決定、自己決定というが、明治や大正、昭和初期の生まれの方々は、我々のように図々しく自己主張を行ってきた世代ではなく、慎ましく自分の意見を主張しないで、他人に合わせるのが謙譲の美徳と考えてきた世代である。

高齢期に入って、その価値観をいきなり変えて自己決定のための自己主張をせよ、ったってできない人も多い。

自己決定中心で考えるより「あんたが、そういうなら仕方ないから出てやるか。」という具合に、恩を着せることを理由に活動参加する、という意欲の引き出し方があったって良いし、そういう方法が最も適している人もいるということを忘れてはいけない。

自己決定の原則が何のために存在しているか理解していない人が都合よく、その言葉を使うことによって様々な介護放棄が行われていないのかも考える必要がある。

「何もせんでいい」という言葉は「何もせんでいい、という自分にもっと働きかけてよ」というアクションであったり、「何ができて、それが何のためになるのか」という問いかけの意味でもあると考えたほうが良い。

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