作家の故・松本 清張氏が、自分が生きた時代の史観を書きたいとしてライフワークにした作品に「昭和史発掘」という名作がある。

この4巻目に5.15事件が書かれている。その中で犬養首相が暗殺される場面は次のような描写になっている(一部要約)。

昭和7年5月15日午後5時半頃、首相官邸日本間にいた首相を、土足の軍人達が取り巻いた。犬養は落ち着いた様子で「靴くらい脱いだらどうか」と抑えるような口調で言った。
そのとき三上卓中尉は首相を睨みつけて「靴の世話などどうでもよいこと。話があれば早く言え」と性急に言った。
「騒がんでも話をすれば分かる」と首相は穏やかに言った。三上中尉は拳銃を一旦下ろして話を聞こうとしたが、その時、山岸中尉が「話を聞きに来たのではない。問答無用。射て射て!!」と叫んだ。首相は左手を上げて制止するように「射たんでも・・・」その言葉が終わる前に黒岩少尉の凶弾に首相は前のめりに倒れた。

以上である。

話せばわかる、と言った首相は「問答無用」の一言で命を奪われたわけである。

考えてみれば、この世の中「話せばわかる」のであれば、ほとんど争いも生まれないだろう。しかし現実の社会は「話してもわからない」から様々な問題が多種多様に存在しているのである。

つまり「話せばわかる」というのは事実ではなく、我々の理想とか希望のレベルでしかないのが現実だ。しかし一方「話したらわかった」ということも数多くあるのも事実である。

この「話せばわかる」ということが成立する条件は、唯一『相手が話を聞く気がある』ことである。

最初から聞く耳持たない問答無用の姿勢の人には何を話しても分からないのである。

しかし話してわかる、わかりあえる、ということは素晴らしいことである。我々ソーシャルワーカーは究極的には、話してわかりあえる関係を作る専門家である。

だから、まず我々自身が「聞く耳」を持っていなければならない。「話し合って」「わかりあう」ことの素晴らしさを実現する為に何をすべきかを探求していくのがソーシャルワーカーの責務である。

さらに相手が我々の話を聞いてくれる姿勢を示してくれる関係を築いていかねばならない。

相手が我々を受け入れ、聞く姿勢を持ってくれる為に何が必要か、実はその入り口は、人としてのごく常識的な礼儀であったり、態度や言葉遣いであったり、服装であったりする。これが常識として理解できないことで関係がこじれるという情けないケースも数多くある。これでは援助者とは言えんだろう。

そして、その上で共感的理解の態度が信頼感を生むのである。 全てはそこから始まる。

この入り口部分で立ち止まっている人はいないだろうか。そのとき、何が足りないのか、自身の中に理由を探すことが必要である。

話せばわかる、という素晴らしさを理解して、話せばわかってくれる人々の輪を広げたいものである。

ああ、しかし絶対に話してもわからないという例外の人はいる。初めから聞く耳を持たず、自分の主張だけしかしない、どこかの国の首相なんかはその典型だろう。

政治は国家と国民の為にあるのであり、自らの信念の実現のためにあるわけではないだろう。

犬養首相も天国で嘆いているんではないだろうか。「問答無用の政治はいかん」って。

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