時々、質問を受けることの中に「看取り介護計画って何か決められた書式があるんですか」というものがある。

「特に決まった書式はないよ、施設の介護計画と同一のもので良いですよ。」と答えているが、中には「今度、看取り介護加算を算定することにしたんですけど、看取り介護計画って、どういう風に作れば良いのですか」と聞かれることもある。

おいおい、順序が逆だろう。きちんと計画同意が得られて、看取り介護としての体制が構築できて、それを実施できることが確認されて始めて「看取り介護」が行えるし、結果的に「看取り介護加算」が算定できるっていうことになるんではないのだろうか?

少なくとも看取り介護を行うための理念や考えがしっかりあって、実施方法も「できること」が明確になっていて「これならば算定ルールに沿った実行が出来る」と判断できる状態で「看取り介護加算を算定する方針で、ターミナルケアを行う」ということになるのが本来だろう。

当然、その中には看取り介護計画の作成とは、こうした内容で行おうという考察がされていなければならない。だから加算を算定する、としている施設の担当者であれば、せめて看取り介護計画についての質問は「どう作るの」ではなく「こういう考えで良いですよね」というところまで詰めていなければならない。

加算を算定することにしましたけど「どうやったらルールに合致するんでしょう」「看取り介護計画ってどう作るんでしょう」では困るだろう。こんなことでは本当に利用者や家族が安心して終末期を過ごせるサービスが提供できることにならないのではないか。

なぜなら計画とは単なる形ではなく、そこで行うサービス提供の内容が具体的に示されるものだ。その書き方がわからない、どういう内容にすればよいの、ということではその施設は「看取り介護」をどういう理念に基づいて実施しようとするのか疑わしくなるからである。

さて愚痴や批判はこのくらいのしておこう。

そもそも看取り介護計画だからといって、特別な書式や内容でそれを作る必要はない。その施設で現在、行っているアセスメント方式と、ケアプラン作成作業と同様で行えば充分だし、むしろ同じ作業手順を踏んで行うことが、施設サービスの一連の過程の中にある看取り介護の方法論という意味では正しい理解であろう。

しかも看取り介護計画というのは、そう難しい計画策定作業を要しない。なぜなら加算算定施設には「看取り介護指針」があることが前提だから、看取り介護の考え方は、施設理念に基づいたものとして指針の中に示されている。

であれば、サービス計画書1に書かれる総合的援助の方針は、指針の中の看取り介護の考え方や視点の中に示されているので、これを当該利用者の状況に合わせて書けばよい。さらにサービス計画書2の具体的援助方法についても、指針の中に必要不可欠な援助内容が網羅されているはずなので、それに基づくボディケア、メンタルケア、看護処置、医療支援体制、家族支援体制などがベースになり、各個人にそれらのサービスが、いつ、誰により、どのように提供されるかということが書かれれば良い。

決して難しい作業ではないし、むしろ指針がある分、通常のケアプランより容易に立案できると感じている。

ここで気をつけたいのは、看取り介護計画の際は、きちんとその計画であることが家族等に認識できる形で、曖昧さを排除すべきであるという点である。施設で最期のときまで安楽にお見送りできる支援計画であるということを、キィーパーゾンだけではない他の家族にも明確に理解して合意できる内容でないと、後に様々な問題を生じかねないことにも注意が必要だと思う。
(このことの関連では:看取り介護考〜死の告知。:という問題の考察が避けて通れない部分ではあるが。)

その上で、特養という施設の中で、出来る支援と、出来ない行為をはっきり示して、その内容での同意を得るということが重要である。

看取り介護は特別な介護ではなく、施設サービスの一環だから、看取り介護計画も特別なものではないという理解が必要だ。

そして何より重要な点は、看取り介護をきちんとできる施設とは、通常の生活支援がきちんと出来ている施設であるということで、施設サービスの質が低いのに、看取り介護だけがすばらしいということはあり得ないのである。

なぜなら、そこで看取りの時期を過ごしたい、最期の瞬間までその施設で過ごしたいと思うことが出来るのは、普段からそこで豊な人間関係が展開され、適切な支援がなされて自分らしい生き方が出来るからに他ならず、そうではなく自分の希望や意向ではないところで単に死を迎える場所が「特養」であるということでは、これは看取り介護の場でもなんでもなく、単なる墓場と同じである。

介護・福祉情報掲示板(表板

※なお明日は土曜特集「masaのラーメン道」の2回目です。お楽しみに。