福祉施設や介護サービスのみならず、職業上の倫理観というのは、すべての職業や、その従業者に求められるものだ。それは法律を遵守するという当たり前の常識を含んだものではあるが、同時に倫理観とは法律より上位にあるものだという理解が必要である。

法治国家において社会生活は法によって律せられる。法には普通罰則規定があり、したがってそれによる強制は強力ではあるけれども、それだけでは全ての人の自然権を守るのには不十分である。

逆に自然権まで全て及ぶような法律を作ろうとすれば、人はこの世の中で正常な社会活動も、生存さえも出来なくなってしまう。

このことは歴史が証明している。中国の歴史で最初に統一国家を作り上げた始皇帝の秦は、法治国家を建設したが、その法治国家は全ての人間生活を法で縛るという極端な思想国家であった。(始皇帝だけが治外法権に置かれていたことは言うまでもないが)そうなると、当時の秦で、ごく普通に生活する人々は生きている営みだけで、何らかの法に触れてしまうという状態が生まれた。

有名な逸話として、始皇帝が亡くなった後、権力を握っていた宦官(かんがい)の趙高(ちょうこう)が、果たして自分はどれほど恐れられているか確かめるため、二世皇帝である胡亥(こがい)に鹿を「馬である」と言って献じた。二世皇帝は「何を馬鹿なことを言っておる、鹿ではないか」と群臣達に言ったものの、群臣達は趙高の権勢を恐れ、「陛下、あれが馬であることをお解りになりませぬか」と答えたとか。(これが馬鹿という言葉の由来であるという俗説もある。)

そのとき「陛下の仰るとおり鹿でございます」といった者は、後に趙高にすべて処刑された。

しかも恐ろしいことに、この処刑とは暗殺などの非合法的な方法ではなく、秦の法に照らした合法的な処刑であった。秦で生活する全ての人は秦の厳格な法律に何らかの形で触れていたので、趙高は自分にとって害があると感じた人間をすべてその法を犯している状況を明るみにしさえすれば合法的に殺せたのである。

つまり法で全ての生活を規定するのでは、人は何らかの法律違反に必ず触れ、それを悪用する絶対権力者によって粛清される道具に使われる恐れがあるということで、我々の生活の全ての行為が法律で規定できると考えることの方が恐ろしいことだ。

むしろ網の目のように全ての生活行為に及ぶ方を作ることより、法によらなくとも守らねばならない当然の規律・人として生きるうえで守らねばならない常識としての倫理観があるべき、という考えはこうした状況を作り出さないための知恵でもある。

例えば食品産業などは法律に該当するものがないからといって、人の健康に重大な支障がある添加物を使用してよいということにはならないのであり、営利企業だからといって「法律で禁じられていないことは全て許される」とする考えは間違っており、社会通念上許されるべきではない行為を指摘された際に「では法律で禁じればよい」と開き直るのは将来的に個人の生活の自由を侵しかねない危険な論理である。

日本プロ野球を面白くなくさせている元凶である某金持ち球団がその昔に関与したドラフト制度の「空白の1日事件;通称・江川事件」などは、もっとも恥ずべき倫理観のない行為といえるのである。(←この部分はガッツ小笠原をとられた、僕の恨みつらみが言わせている個人的感情である:。)

特に我々、介護サービス事業は、人の生活に関わるものだから、よりデリケートな部分で、この倫理観が求められる。人の心を傷つけることは、法律の及ばない場合が多いが、だからといって、このことを放置するような介護サービスが許されないのはあたり前だ。

だから不正を指摘された事業所が、罰則を適用される前に、事業指定廃止の申し出を行って、指定取り消しなどを逃れる行為は、法が規制できなくとも、本来、職業倫理としても許されるものではない。大手介護事業所がこういう行為を繰り返すなら社会的指弾を受けなければならないだろう。

つまり倫理が法の及ばない部分をカバーする意味は、

1.法による制裁は人の自由を束縛(懲役、禁固など)したり、人の財産に干渉(罰金、損害賠償など)する性格のものである。したがって、人の権利を不当に侵害することがないよう、適用の条件が厳格に規定される。その結果、社会から非難されるようなことでも、法的追求を免れ、法の網から漏れるという空白部分が生じる。

2.強力な法律を作って義務として強制しようとすればするほど、人々は、責任を他人に転嫁して逃れようとする。法を積極的に順守するよりも、法による制裁を逃れさえすればよいという消極的な対応になりがちである。そこにも法の空白部分が生じる。

3.事故が起きてから法律によって責任を問い制裁するのは、後追いの手法である。いかに多額の損害賠償を得ても、失われた生命は戻らず、失われた健康はしばしば回復不能である。人の生命や健康にかかわることは、起きないように抑止する歯止めとなる行動が必要だが、それには法による強制はほとんど無力である。

という理解が必要で、法は国家権力等に強制される他律的な規範であり、倫理は自主的な順守が期待される自律的な規範で、倫理のほうが「法より上位のもの」「法より広いもの」という認識が必要であろう。

そういう意味で「倫理」とは「人として何が大切か」という本質を常に問いつづけるものでなければならず、

1.施設や事業所の運営方針とは、場合によって相反する場合がある。
2.経営者の要求とは、場合によって相反する場合がある。
3.自己覚知と密接に関連している。
4.利用者の権利や人権を守る為、高い倫理観をもってサービス提供にあたる必要がある

という側面があることも理解が必要だろうと思う。

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