73fd2315.jpg国道36号線と登別温泉をつなぐ道沿いの「桜のトンネル」が満開となっている。桜の種類はエゾヤマザクラがほとんどである。

ソメイヨシノのような典雅さには欠けるかもしれないが、ピンク色に染まるエゾヤマザクラは北海道の雄大な大地に良く似合った桜だ。

僕の施設の敷地内にもこのエゾヤマザクラが沢山咲いている。そしてこの桜が散るころには八重桜が満開になっているだろう。その八重桜は、開園間もない頃「日米桜の女王」が当市を訪れた際に、当園にも寄って植樹したものだ。

桜に寄せる日本人の思い入れは特別だろう。桜を見て春を感じる人も多い。僕の施設で暮らす方々にも、春をしっかり感じてもらいたいので、市内の桜の名所を見に行ったり、桜ロードをドライブしたり、出かけられない人にはせめて、敷地内の桜の木に触れるところで花を見てもらったりしている。

この桜を見る、という行為一つも、かつては何か行事のように予定を組んでバスツアーみたいにして20人、30人と団体で時間を決めて慌しく「機械的な花見」が行われていた時期がある。

利用者が見たい、というより、施設側が単に定期的な行事という概念で、本当に利用者が見たい方法、見たい時間、見たい場所について考えられていなかったのではないかと思う。

今はそんなに大人数で出かけることはないし、たまたま天気が良くて、桜が咲いたときに、いきたい気持ちや行きたい場所に応えるような対応が当然のように行われている。

今日はデパートに買い物に出かけたけど帰りに公園によって桜並木を歩いてきた、とか、通院の帰りに運行経路を変えて桜を見てきたとか、天気が良いし体調も気分も良いので桜でも見につれてってよ、と生活の中で自然に桜を見ている。それは支援行為でもなんでもなく、人の暮らしそのものなんだろうと思う。

あまりうまく表現できないが、桜を見るということを特別な行事ではなく日常にすることが大切だということである。

施設の都合より、利用者の都合が優先されるということを当然自然に思考できるシステムが大事であると言うことで、今ではこの意識は当たり前であろうが、そういう意識が「当たり前でない時代」がすぐ最近まであったのだ。

その当たり前でない状態を作り出し、なかなかそれを変えられなかった一番の阻害要因が「固定概念」である。固定概念がおかしいと思っても、これを変えるためには多大なエネルギーを必要とした。しかしそれを変えたのは、経験より若さであったのかもしれない。

故人である作家の司馬遼太郎さんが「坂の上の雲」という小説の中で、主人公の一人、秋山 真之(日露戦争の日本海海戦を勝利に導いた東郷平八郎の日本艦隊の実質的な作戦を全て立案した参謀)にこんな言葉を語らせている。

「軍艦というものは一度遠洋航海に出て帰ってくると、船底にカキガラがいっぱいくっついて船足がうんと落ちる。人間も同じで、経験は必要じゃが、経験によって増える知恵と同じ分量だけのカキガラが頭につく。知恵だけ採って、カキガラを捨てるということは人間にとって大切なことじゃが、老人になればなるほどこれが出来ぬ」

「人間だけではない。国も古びる。カキガラだらけになる。」

「おそろしいのは固定概念そのものではなく、固定概念がついていることも知らずに平気で司令室や艦長室の柔らかいイスにどっかりすわりこんでいることじゃ。」

「あしは(わし、俺の意味)世界一の玄人であるイギリス海軍に学んだため、玄人の目でアメリカ海軍を見ると、やることなすこと実に素人くさい。しかし恐ろしいのはその素人くささということじゃ。素人というのは知恵が浅いかわりに固定概念がないから必要で合理的と思うことはどしどし採用して実行する。ある意味でスペイン海軍のほうが玄人であったが、その玄人がカリブ海で素人のために沈められてしまった。」

僕もそろそろカキガラをなかなか捨てられない年令になってきている。カキガラがついていることにも気づいていないかもしれない。油断すると施設サービスも古びてしまう。

この福祉の介護現場は、カキガラを捨てないで既存サービスを続けて支障がないほど成熟してはいないだろう。

成熟したサービスを作り上げている現場であっても、カキガラが船底についていることに気づかないと、たちまち速度が鈍り、誰かに追い越され気がつけば最後尾をのろのろと走ることになるぞ。

いつもカキガラがついていないか考え続けないといけない。若い人たちには我々のカキガラを落とす手助けをして欲しいし、若い人にしかできないことも沢山あるということを知ってほしい。

自分たちの周りにカキガラだらけで船足の鈍くなったことに気付いていない介護施設や事業所がないか見渡すことも大事だ。

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