2005年4月から厚生労働省が「認知症を知り地域を作る10ケ年」構想を提唱し「認知症サポーター100万人キャラバン」という事業をスタートさせている。
このキャラバンは認知症サポーターを全国で100万人養成し、認知症になっても安心して暮らせる「まち」を目指すものだが、サポーター自体に特別な役割があるわけではなく、認知症を正しく理解してもらい、認知症の人や家族を温かく見守る応援者として自分のできる範囲で活動し、認知症になっても安心して暮らせる街づくりを目指すものである。
サポーターを養成する為の各地域における講師を務めるのは「キャラバンメイト」である。キャラバンメイトは都道府県等が主催する養成研修を受けたもので、それぞれの自治体ではキャラバンメイトと協力しながらサポーターを養成していくこととなっている。
このブログをご覧の皆様は、業界関係者の方も多いから、そのことはご存知だろうし、キャラバンメイトである方も多いだろう。
実は僕もキャラバンメイトである。
しかし当市におけるサポーター養成研修はまだ行なわれていない。まあこの市は、こと福祉に関して何かを率先して取り組むということはまずなく、近隣の市町村の状況を見てから後追いで行なうことが得意な地域であるから、なにも珍しい状態ではない。
とはいっても来年度は、この事業を実施することになり、僕も協力していかねばならないのだろうと思っている。
さてサポーターを地域で増やしていこうという意味は、サポーターに地域の中で、認知症の方々のケアについて具体的に何かをやっていただこうと意味でも、専門的に関わってもらおうという意味でもなく、地域の中に認知症の方々への理解を浸透させていこうという意味であり、その理解も専門知識というより、超高齢社会の今日においては、誰もが認知症になる可能性があり、地域の中に認知症の方が暮らしているのは「当然である」という意識を持ってもらって、街の中で何かに混乱して困っているような高齢者を見かけたら、誰もが声をかけたり、ちょっとした支援をしたりできる「当たり前にふれあい支えあう街」を作ることが目的である。
僕は、ヘルパーの養成講座などで認知症についての講義をする際に「85歳以上の4人に一人は認知症になる」という事実を挙げ、ご夫婦の方のそれぞれの両親がすべて85歳までご健在なら、確立から言えば、必ずそのうちのお一人は認知症になる、と話している。つまり認知症になるということは、自然の老化の過程でひき起こる極めて普通の現象であり、恥ずかしいことでも、異常でもない、ごく身近な問題である、ということを理解していただくという意味だ。
考えてみれば過去の日本の社会の隅々には、サポーターを養成しなくても、良い意味での他人への関心と干渉が自然に存在していた。「向こう3軒両隣」の人間関係がある地域社会があって、悪いことをする子供には、知らないおじさんやおばさんが怒ったし、困っているような高齢者がおれば、誰もが声をかける関係があった。僕は田舎の出身だから、そんな関係社会が普通であった。
そうした地域社会を、この国はわずか数十年の間に急速に失ってしまったんだ。それを何とか構想とか、なんとか事業で補おうとしている。この社会が失ってしまったものの価値は想像以上に大きかった、ということではないのだろうか。
ところでこのサポーター研修は100万人という養成人数の数値目標がある。そのため各地で養成研修を行なって何人サポーターになったかを数字で競っている感があるという意見もある。今年1月現在のサポーターは12万人となっていることも、様々な場所で大きく取り上げられている。そのため各自治体も要請者数が増えることのみに関心が向いているのではないかという意見も聞かれる。
しかし今まで認知症というものがまったく自分と縁遠い存在と意識していた市民が「認知症って何」ということを、どういう方法でも触れて知る機会ができたことは良いことで、その講習を受ける人が増えていることも悪いことではないと思う。
つまりサポーター研修終了の意味は、終わりではなく「始まり」なのだ。
まず1歩目が必要だ。そのサポーターの中から、一人でも、二人でも、地域の中に住まう「認知症の方々」に目を向ける意識を持ってくれたり、関心を持ったり、声をかけたりする人が生まれたら、もしかしたら、僕たちが失った地域社会の再生のきっかけにはなるかもしれない。
他人に無関心の社会を変えて欲しい。おせっかいがたくさん存在する地域社会の再生が必要だと思う。
特に子供たちに、その意識が育ってくれることを願ってやまない。
介護・福祉情報掲示板(表板)
このキャラバンは認知症サポーターを全国で100万人養成し、認知症になっても安心して暮らせる「まち」を目指すものだが、サポーター自体に特別な役割があるわけではなく、認知症を正しく理解してもらい、認知症の人や家族を温かく見守る応援者として自分のできる範囲で活動し、認知症になっても安心して暮らせる街づくりを目指すものである。
サポーターを養成する為の各地域における講師を務めるのは「キャラバンメイト」である。キャラバンメイトは都道府県等が主催する養成研修を受けたもので、それぞれの自治体ではキャラバンメイトと協力しながらサポーターを養成していくこととなっている。
このブログをご覧の皆様は、業界関係者の方も多いから、そのことはご存知だろうし、キャラバンメイトである方も多いだろう。
実は僕もキャラバンメイトである。
しかし当市におけるサポーター養成研修はまだ行なわれていない。まあこの市は、こと福祉に関して何かを率先して取り組むということはまずなく、近隣の市町村の状況を見てから後追いで行なうことが得意な地域であるから、なにも珍しい状態ではない。
とはいっても来年度は、この事業を実施することになり、僕も協力していかねばならないのだろうと思っている。
さてサポーターを地域で増やしていこうという意味は、サポーターに地域の中で、認知症の方々のケアについて具体的に何かをやっていただこうと意味でも、専門的に関わってもらおうという意味でもなく、地域の中に認知症の方々への理解を浸透させていこうという意味であり、その理解も専門知識というより、超高齢社会の今日においては、誰もが認知症になる可能性があり、地域の中に認知症の方が暮らしているのは「当然である」という意識を持ってもらって、街の中で何かに混乱して困っているような高齢者を見かけたら、誰もが声をかけたり、ちょっとした支援をしたりできる「当たり前にふれあい支えあう街」を作ることが目的である。
僕は、ヘルパーの養成講座などで認知症についての講義をする際に「85歳以上の4人に一人は認知症になる」という事実を挙げ、ご夫婦の方のそれぞれの両親がすべて85歳までご健在なら、確立から言えば、必ずそのうちのお一人は認知症になる、と話している。つまり認知症になるということは、自然の老化の過程でひき起こる極めて普通の現象であり、恥ずかしいことでも、異常でもない、ごく身近な問題である、ということを理解していただくという意味だ。
考えてみれば過去の日本の社会の隅々には、サポーターを養成しなくても、良い意味での他人への関心と干渉が自然に存在していた。「向こう3軒両隣」の人間関係がある地域社会があって、悪いことをする子供には、知らないおじさんやおばさんが怒ったし、困っているような高齢者がおれば、誰もが声をかける関係があった。僕は田舎の出身だから、そんな関係社会が普通であった。
そうした地域社会を、この国はわずか数十年の間に急速に失ってしまったんだ。それを何とか構想とか、なんとか事業で補おうとしている。この社会が失ってしまったものの価値は想像以上に大きかった、ということではないのだろうか。
ところでこのサポーター研修は100万人という養成人数の数値目標がある。そのため各地で養成研修を行なって何人サポーターになったかを数字で競っている感があるという意見もある。今年1月現在のサポーターは12万人となっていることも、様々な場所で大きく取り上げられている。そのため各自治体も要請者数が増えることのみに関心が向いているのではないかという意見も聞かれる。
しかし今まで認知症というものがまったく自分と縁遠い存在と意識していた市民が「認知症って何」ということを、どういう方法でも触れて知る機会ができたことは良いことで、その講習を受ける人が増えていることも悪いことではないと思う。
つまりサポーター研修終了の意味は、終わりではなく「始まり」なのだ。
まず1歩目が必要だ。そのサポーターの中から、一人でも、二人でも、地域の中に住まう「認知症の方々」に目を向ける意識を持ってくれたり、関心を持ったり、声をかけたりする人が生まれたら、もしかしたら、僕たちが失った地域社会の再生のきっかけにはなるかもしれない。
他人に無関心の社会を変えて欲しい。おせっかいがたくさん存在する地域社会の再生が必要だと思う。
特に子供たちに、その意識が育ってくれることを願ってやまない。
介護・福祉情報掲示板(表板)
家人でも他人でもないグレーゾーンの人達を家の中に招き入れるでもなく、追い返すでもなくこの空間で接待する。これは物の認識の作法です。現代日本人はこのグレーゾーンを認識する方法を喪失してしまっているのではないでしょうか。