集団処遇が否定され個別ケアが叫ばれるのは、昨今の介護現場ではどこも同様だろう。

もちろん集団に埋没して、個人の思いが達せられないような生活は問題だ。個人の思いが実現できる生活支援が重要なのはいうまでもない。

しかしだからといって、集団的な活動全てを否定するような意見にはついていけない。

大事なことは活動参加に選択性があり、参加しない自由も、参加できる自由も、両方が保障されることであり、小単位ではできない利点も集団活動の中にある場合もあるという臨機応変、柔軟な発想が必要だ。

介護の現場は、生活そのものに密着した現場だから、固定観念だけでは適応不能になるし、それを無理に既存の考え方に押し込めるのが利用者より、サービス提供者側の視点からのケアというものになるから、サービス対象集団をいくら小集団化したところで、柔軟な発想や、個人の思いに目を向ける視点がないと、小集団に硬直的サービスを押し付けるスタイルに変容するだけの話で、ハードだけがユニットケアで、実際のソフトは極めて押し付けがましい現場を数多く見てきている。

心が動かないユニットケアなど、導線が短い画一処遇にほかならない。

僕は施設の中で、今でもたまに療育音楽やビデオ回想法の進行役を行なうことがある。どちらも結構大きな集団で行なう。

それを見て集団処遇だとか、活動単位が大きすぎて、個人に目が向いているのかという人がいる。大きなお世話だ!!僕と一緒に歌を歌ったり、ことわざを復唱したり、昔話をしている人々の表情を見て言え。

回想法は集団では効果がない、なんてわかったようなことをいう輩もいる。

誰が精神療法としてのライフレビュー、回想療法を行なっていると言っているのだ。療法なんかクソクラエである。

僕は、単にビデオを見ながら、昔の生活や、家具や、食べ物を思い出しながら、ここに住まう皆さんと談笑して楽しいひと時を過ごす時間を作っているだけだ。

その向こう側に、心身活性化効果による機能維持とか、脳の活性化なんて考えていない。ここでともに暮らす方々に、少しでも楽しいひと時を過ごしてもらおうという意味にしか過ぎない。

それがある人には、ビデオ回想法であり、ある人には読書であり、ある人には外出であり、行事やレクなどの活動であったりする。選択肢がある、ということが大事なんだ。

療育音楽だって、好きな曲のときだけ参加したって良いし、愉しみ方は様々だ。
でも皆で一緒に歌うというのは個別対応の場面にはない別の楽しさがあるのだ。

この時期は卒業シーズンで、舟木一夫の「高校3年生」とか、学校唱歌の「仰げば尊し」なんかを歌ったり、千昌夫の「北国の春」なんかを歌ったり、演奏したりしている。

こういうのは人数が多ければ多いほど乗りもよくなるのだ。4〜5人で寂しく歌ったり、演奏するんじゃなくて、みんなで集団となって声を出しているうちに、口も大きく開いて、気分も高揚してくるんだ。それが嫌いな人は参加しなければ良いだけの話で、そういう活動を全て否定する考えこそ硬直的だ。

だって、そんなの全生活の中の、どれだけの部分よ。時にははじけて声を出せる場があったってよいのである。日常の中の非日常があったって良い。

心が動く方法は、集団であるか、ないか以前に、ひとりひとりの思いに目を向けた眼差しが職員に養われているか、ということが問われるわけで、ユニットケアという方法は、使いこなす道具に過ぎない。

道具を使う人間自身の想像力と創造性が問われてくるのだ。ハードとソフトだって、その中で使いこなすものだ。

介護・福祉情報掲示板(表板)