今日は老健の優れた療法士の皆さんに、怒られることは承知の上で、次のような問題提起をあえてしてみたい。

老人保健施設は老人保健法の中で、在宅復帰支援施設(中間施設)を理念として誕生した経緯がある。介護保険法の施行後、それは介護老人保健施設となったわけでが、中間施設の役割を放棄してよくなったわけではない。

ただ一部の老健では、介護保険制度誕生以降、特養と変わらないような長期入所施設に様変わりしてしまったという結果が見られ、15年のルール改正時は「老健の在宅復帰支援施設としての機能強化」という観点から、老健における訪問リハビリを認め、これを活用することが奨励された。報酬も本体報酬は減算されたが、リハビリ関連の加算報酬を作って、リハビリ機能を前面に押し出す誘導が行なわれた。

昨年の改正でも試行的退所の費用算定が新設されたことは、在宅復帰支援機能のさらなる強化という意味がある。リハビリテーションマネジメントや短期集中リハビリも、専門的リハビリの実施をより強く求めたものであろう。

今、介護保険施設は23年末の療養型廃止に伴う再編論の中で、特養と老健の機能見直しが行なわれている最中であるが、老健の中間施設の機能が見直されるということはないと思う。

しかし老健が真に在宅復帰機能を発揮しているんだろうか。
もちろん老健の中には在宅復帰率の高い施設も実際にある。ただ、ここで考えて欲しいのは、単に結果として自宅に戻る高齢者の割合や、数が多いという意味だけではなく、どういう生活を在宅でできるのか、そのために施設入所期間中にどのようなサービスが行われているのか、という意味である。終生生活施設との差別化はどこで図っていくべきなのだろうか。

そこで在宅復帰支援施設としての老健が、あまりにも医学モデルの機能訓練、理学療法や作業療法に偏ってリハビリが考えられていることで見失ってしまっているものはないか、という点を考えてみたい。

勘違いして欲しくないのは、僕は療法士の行なう個別リハビリをすべて否定しているのではなく、それに加えて必要なものはないか、ということを言いたいのである。

まず僕は在宅復帰を支援する施設や事業所の過度な(?)バリアフリー化は必要ないと思う。玄関の自動ドアや段差解消が「当たり前」という感覚ではなく、自分で開けることができる玄関ドアや、上がり框をあえて作ることも必要ではないだろうか。居宅で暮らすために、必要な段差がある暮らしを施設の中に取り入れる視点があっても良いのだ。住宅改修ですべてクリアするのではなく、普通の住宅での暮らしを想定した小さな段差や、不便さを感じながら、そこで暮らすための機能活用を考える視点も必要だろうと思う。その上で、どうしてもクリアできない部分だけを住宅改修や福祉用具貸与で補うことのほうが必要な支援ではないだろうか。

それから施設サービスにおいてもっとも欠けているのは、家事能力に対する機能活用のプログラムではないか。施設サービスの中で、自分で煮炊きしたり、洗いものをする行為、あるいはそれらができなくても何らかの役割を持ってその一部に関わる機会は以外と少ない。

なぜそれが必要かと問われれば、それは居宅には療法士がいない、という意味からである。

在宅復帰できる状態に身体機能が改善しても、その機能を生活の中で使わなければ廃用は進行する。自宅で身体機能を維持する為には訓練を継続するのではなく、生活の中でいかに機能を活用維持できるかという視点も必要ではないだろうか。インフォーマルな支援があったとしても、その中で家庭で高齢者が生活の中で役割を持てる、という生活が必要で、一方的にケアを受けて生活する、ということだけではなく、また家庭でケアできる、という介護者の論理だけではない在宅復帰支援が必要ではないだろうか。

訓練室の中でしか使わない機能では意味がないのである。施設におけるリハビリの視点を、もっと居宅の生活に近い形と場面で機能活用する働きかけが必要だ。そうでなければ在宅復帰施設の機能訓練が、ともすれば本人の生活の為ではなく、介護者がいかに楽に介護できるか、という視点に偏ってしまう恐れが無きにしも非ず、である。なにより生活者としての利用者が居宅でどんな暮らしができるかが求められるべき視点と思う。

ユニット施設で行う高齢者自身の家事参加と、そこで展開する支援は何も認知症の方々のケアに特化して考えなくても良い。家事参加がメインサービスである老健ができたって良いと思う。新型老健はその方向に行くのだろうか。そうあって欲しい。

医療の専門家としての医師や看護師、療法士が配置されている施設に、非専門的な日常のケアへの視点がプラスされれば、これは大きな武器になるのではないか。

なにしろ僕は何度も言っているが人の生活はもっとも個別的で非専門的であるのだから。

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