僕はいくつかの小論文や自らの講演、そしてこのブログの中で「施設の常識が一般社会の非常識」という状態を無くさないと、個人のニーズに光が当てられる生活支援はできないといい続けている。
同時に介護サービスは、家族に替わる支援であり、家族に寄せられるような信頼感を得て支援に当たることは大事だが、家族とイコールではなく、親しき仲にも礼儀あり、過度の馴れ合いを生む言葉の乱れ(ちゃん付けの呼び方や友達言葉での会話)は問題だと指摘し続けてきた。
しかし、自らの施設でも、なかなか継続的にこの考え方が浸透していかないジレンマがある。言葉の適正化は常に言い続けないと、すぐおかしな乱れになるし、先日も「〜ちゃん」と呼んでいる職員に注意した。そのような乱れた言葉でしか親しみが表せないわけではないだろうし、若い職員ではなくても、自分の親が年下の介護職員からそのような呼び方をされていて喜ぶ子がいると思っているとしたら、それは間違いである。
どんな体や心に障害が生じても、子にとって親は、自分を育ててくれた尊敬すべき存在なのである。他人様にわざわざ尊厳を無視されてまで親しくしてもらわなくても良い。
また「施設の常識が一般社会の非常識」という面でも個々の職員の意識がそこについてこないことで現場の中でも、意識の差がサービスの差になって現われてしまう場面が多々ある。
我が施設の恥を書くような結果になるやもしれないが、改善しなければならないという教訓の意味をこめて、あえて「意識の低さが現われる場面」について書くことにした。
僕の施設はもともとユニット型の施設ではないので食堂は1回に全員が集まるタイプで1箇所しかない。
しかし、この施設の中で、ユニットケアを実施するに際して(実際は1単位がユニットより大きいグループケアであるが、施設内では各ユニットという言い方をしている)、介護の導線を考えたとき、各ユニットごとに食事ができる場所が必要となって、デイルームとして使っていた場所を食堂に置き換えて使っている。しかし、そこはもともと食事場所ではなかったので、トイレの入り口に近い場所となってしまっている。
そのため、トイレのドアは常に閉めているし、食事場所としての雰囲気を失わないような工夫に注意はしているのであるが、時として、食事中にトイレのドアが開けっ放しになってしまったりする。これは食事支援という業務の中で、食事が終わった人がトイレに行く介助をそのままの延長で行なってしまうことにより、食事を摂っている人の立場を考えることなく、介護業務の一環としての感覚で全ての物事を捉えてしまうことにより、食べている人の立場ではなく、トイレ介助が必要だという業務の流れを優先して考えてしまうから、今食事をしている人の感覚を忘れてしまっているのだ。
確かに生活支援というのは、利用者にとってのプライベートな生活部分に、介護者は業務の一環として関わるわけだから、両者の感覚にはズレが生じやすい。しかしプロであるということは、こうした感覚のずれにも意識が及ぶ支援ができる、ということでなけらばならない。
生活者としての利用者の立場を考えるとき、業務としての導線と、それをしっかり区別する意識や感覚が不可欠なのである。
こうした感覚のずれを放置してしまうと、この感覚差は非常に大きな問題を引き起こす。
つい先日、食事介助に時間がかかる方がいて、ユニットの食事場所で、その方だけが食事摂取介助を受けていたのであるが、そのすぐ近くのトイレのドアが閉められておらず、しかも、その中でケアワーカーは濡れて汚れてしまったオムツの処理をしている場面に出くわした。
これは異常だと思って、当該職員だけでなく、主任、副主任を呼んで注意すると共に、緊急的にユニット会議を行い、問題の所在を話し合ってもらった。幸いなことに、わが施設の職員は、この状況を「まずい」と考えてくれていて「大きなミス」と自覚してくれたので、すぐ改善への取組が行なわれたが、これを異常と思わなくなったらおしまいである。
こうした社会の非常識で、利用者の尊厳や希望を失わせないような支援が求められているのであり、良いケアをする前に、当たり前のケアとは何かを考えることが重要だ。
介護・福祉情報掲示板(表板)
同時に介護サービスは、家族に替わる支援であり、家族に寄せられるような信頼感を得て支援に当たることは大事だが、家族とイコールではなく、親しき仲にも礼儀あり、過度の馴れ合いを生む言葉の乱れ(ちゃん付けの呼び方や友達言葉での会話)は問題だと指摘し続けてきた。
しかし、自らの施設でも、なかなか継続的にこの考え方が浸透していかないジレンマがある。言葉の適正化は常に言い続けないと、すぐおかしな乱れになるし、先日も「〜ちゃん」と呼んでいる職員に注意した。そのような乱れた言葉でしか親しみが表せないわけではないだろうし、若い職員ではなくても、自分の親が年下の介護職員からそのような呼び方をされていて喜ぶ子がいると思っているとしたら、それは間違いである。
どんな体や心に障害が生じても、子にとって親は、自分を育ててくれた尊敬すべき存在なのである。他人様にわざわざ尊厳を無視されてまで親しくしてもらわなくても良い。
また「施設の常識が一般社会の非常識」という面でも個々の職員の意識がそこについてこないことで現場の中でも、意識の差がサービスの差になって現われてしまう場面が多々ある。
我が施設の恥を書くような結果になるやもしれないが、改善しなければならないという教訓の意味をこめて、あえて「意識の低さが現われる場面」について書くことにした。
僕の施設はもともとユニット型の施設ではないので食堂は1回に全員が集まるタイプで1箇所しかない。
しかし、この施設の中で、ユニットケアを実施するに際して(実際は1単位がユニットより大きいグループケアであるが、施設内では各ユニットという言い方をしている)、介護の導線を考えたとき、各ユニットごとに食事ができる場所が必要となって、デイルームとして使っていた場所を食堂に置き換えて使っている。しかし、そこはもともと食事場所ではなかったので、トイレの入り口に近い場所となってしまっている。
そのため、トイレのドアは常に閉めているし、食事場所としての雰囲気を失わないような工夫に注意はしているのであるが、時として、食事中にトイレのドアが開けっ放しになってしまったりする。これは食事支援という業務の中で、食事が終わった人がトイレに行く介助をそのままの延長で行なってしまうことにより、食事を摂っている人の立場を考えることなく、介護業務の一環としての感覚で全ての物事を捉えてしまうことにより、食べている人の立場ではなく、トイレ介助が必要だという業務の流れを優先して考えてしまうから、今食事をしている人の感覚を忘れてしまっているのだ。
確かに生活支援というのは、利用者にとってのプライベートな生活部分に、介護者は業務の一環として関わるわけだから、両者の感覚にはズレが生じやすい。しかしプロであるということは、こうした感覚のずれにも意識が及ぶ支援ができる、ということでなけらばならない。
生活者としての利用者の立場を考えるとき、業務としての導線と、それをしっかり区別する意識や感覚が不可欠なのである。
こうした感覚のずれを放置してしまうと、この感覚差は非常に大きな問題を引き起こす。
つい先日、食事介助に時間がかかる方がいて、ユニットの食事場所で、その方だけが食事摂取介助を受けていたのであるが、そのすぐ近くのトイレのドアが閉められておらず、しかも、その中でケアワーカーは濡れて汚れてしまったオムツの処理をしている場面に出くわした。
これは異常だと思って、当該職員だけでなく、主任、副主任を呼んで注意すると共に、緊急的にユニット会議を行い、問題の所在を話し合ってもらった。幸いなことに、わが施設の職員は、この状況を「まずい」と考えてくれていて「大きなミス」と自覚してくれたので、すぐ改善への取組が行なわれたが、これを異常と思わなくなったらおしまいである。
こうした社会の非常識で、利用者の尊厳や希望を失わせないような支援が求められているのであり、良いケアをする前に、当たり前のケアとは何かを考えることが重要だ。
介護・福祉情報掲示板(表板)


感動の完結編。

利用者の視点で見ようとする習慣、施設内でのOJTが、どこまで機能しているかが問われる瞬間でもありますね。masaさんのところは大丈夫だね。施設長がこれだもの(笑)。