福祉という文字の、福も祉をその意味は「しあわせ」だそうである。

しかし、もっと深く意味を追求すると、「福」は主に『物とお金の豊かさ』を表し、「祉」は『心の豊かさ』を表す言葉らしい。

つまり物質的な豊かさと精神的な豊かさを併せ持っているという意味で、さらに物質的な豊かさが先に来ている、という言葉の組み合わせである。

ある意味で、これは当然で『物とお金の豊かさ』といってもそれは贅沢な欲求充足を意味しているのではなく、もともと福祉の対象は「貧困」であったことに由来しているということだろう。

貧困と一口に言っても、今の時代の概念からは考えられないほど、人の1次的欲求さえ満たすことが困難で、命を繋ぐ食さえ手に入れることが難しい人々がたくさんいた時代からの貧困との戦いである。

子供の福祉だって、もともとは食を確保する為、骨格が固まる前から強制的に劣悪環境で労働に従事させられていた子供たちを、そこから解放するために始まっている。

だからこの「福」が持つ「物とお金の豊かさ」とは重い意味を持つものなのである。

ところで、マズロー(米国:心理学者)は、人のニーズの階層を次の5階層に分けて考えた。

第1段階は飢えや渇きといった生命の充足を得たいという生理的ニーズである。
第2段階は安全を守ろうとする防衛的ニーズである。
第3段階は家庭や学校、職場等の集団への帰属ニーズである。
第4段階は人格を認められたいという自己尊重のニーズである。
第5段階は真理や正義、善や有意義性を求める自己実現のニーズである。

そして基本的には1段階から順に下層ニーズが満たされてはじめて次のニーズを実現する欲求が生ずるとして、社会福祉では、諸サービスを通して第4段階までの多様なニーズに対応していくことが必要であると唱えた。

だから基本的な生理的欲求を満たすための援助は必要不可欠であるし、その意味からもWelfareを日本語に約した先人は、幸せの中でも物質的豊かさを現す福という文字を頭文字に当てたのではないだろうか。

幸せなことに、今、我々は明日の食の心配をすることはないし、飢えや渇きの不安におびえることもない。マズローの言う4段階までのニーズが満たされているから、人の福祉に関わることができるんだろう。

極端な話「ひかりごけ事件」のような極限状況に置かれたときに、我々には、人を助けようという欲求や動機など生まれるわけがないのである。

だからこそ、我々は社会の隅々まで様々な制度や支援の光が届き、全ての人が他者を心に留め、いたわり、敬う環境が守られる社会を必要としている。

そうした意味では社会福祉政策は、資本主義社会で格差のついた社会の富の再分配施策であるはずで、一部の富裕層だけに集中する特徴を持つ社会的な財や富を、社会福祉サービスという形でそこから切り取って一部を、社会的弱者にも届けようとする意味があるのだ。

生産年齢に組み込まれていた時期における、現役時代において、資本主義の弱肉強食論理の中で負の遺産を背負った人々が、老年期にもその遺産を引き継いで、その階層独自のサービスしか受けられないというのは劣等処遇論理そのもので社会福祉ではない。

ところが今この国の向かう方向は、現役時代の負の遺産を引きずって、富めるものはよりよいサービスを受けることができるが、貧する者は、その自己責任で使えるサービスも限定される。

介護保険制度が社会福祉制度でない、と一部で言われているのは、そういう意味である。

我々が老年人口に組み入れられる頃には、年金は引き下げられ、税金や低所得者層の負担が増大し、ますます住みにくい社会になっていくだろう。そんな社会で豊かな福祉の心は育っていくのであろうか。

「美しい国」は富める一部の人々の間違った現実認識である。それは今現在、幻想でしかない。
国権の最高機関で政治家の金の使い方が最重要問題として審議され、社会の片隅で通院費用や介護費用の捻出に苦しんできる人々がいる社会が「美しい国」であるわけがない。

そんな言葉を軽々しく口にするな。その前に社会の片隅で、貧困や周囲の無理解、偏見や差別で十分な介護や社会的支援を受けられない人々の声を聞け。


格差社会をまず何とかしていかなければ、この国の未来は美しいどころか、おどろおどろしい社会になってしまう。