乙武 洋匡さんは、その著書「五体不満足」の中で『障害は不幸ではないけれど、不便である』と述べている。この言葉を噛み締めながら「介護」の意味について考えてみたい。

介護の「介」とは、心にかける、気にかける、仲立ちをする、等の意味がある。
そして「護」は、まもる、かばう、ふせぐ、たすける、という意味である。

障害は生活上の不便なんだ。

そこを我々は「心にかけて、護り助ける」つまり、身の回りの行為(セルフケア)に不便や不自由をきたした人の、支障のある部分を補い、支援するとき、相手の心の負担にならないように、そっと手を差し伸べて彼らの彼ららしい生活が獲得できる手助けを、彼らの尊厳やプライバシーを守りながら行うという意味だろう。

だからいくら技術が優れて、おむつ交換を手早くできても、その行為が相手の心の負担になるような支援行為なら「介護」にはなっていないということだ。

人間食器洗い機みたいなジェットバスに入って体がきれいにはなっても、湯船に浸かる気持ちよさを感じることができないような行為ならば、それは入浴介助ではない。

介護とは、ある時期自立の支援ということが重要な課題になる時期もあれば、それが全てではなく、ある時期は「安らかな生活、安楽な死への入り口での時期における支援」という場合もある。

そこで大事なのは、高齢であろうが障害があろうが、その人らしく、その人が望む普通の暮らしが出来るように支援することだ。特別な事ではなく「人として当たり前の生活」を支援する事だろう。

例えば、下着が便や尿で汚れたら、すぐ取り替えて綺麗にして気持ち悪い状態を続けないのが「当たり前の生活」で、時間がくるまで取りかえるのを待ってもらうのは「非常識」の世界であり、そのことを忘れないのが介護の本質であり、自立支援とは機能を良くすることだけを言うものではない。

そういう「当たり前の生活」をごく普通に様々な障害のある方に提供するお手伝いが介護なのだ。

特別な事を、これこれしているから私の施設や私の介護は素晴らしいぞ、と思っている専門家がいるとしたら、それは大きな間違いである。特別な時間より普通の時間のほうがずっと長いのである。

そして体の機能も、朝起きて、夜寝るまで、様々な日課活動を人との関係の中で自然に使うことによって維持している。つまり身体機能も「体」だけの問題ではなく「心」も含む問題で、どういう「生活」「暮らし」がそこにあるのか、ということが最も重視されるべきである。それも特別な生活ではなく、ごく当たり前の人間らしい「暮らし」である。

そういう当たり前の生活とは何か、それを考えるのが1番大事で、そんなものを考えるのに専門家は必要ないし、そもそもそんな専門家はいるはずがない。なぜなら本来、個人の生活とはもっとも個別的なもので、その専門家は当事者自身しかなり得ないからだ。

福祉や介護の専門家と呼ばれる人が、その人の価値観で作りあげる「形」が、全ての人の幸福とかニーズと結びつかないことは至極当たり前で、むしろそのことが、世間の常識が施設の非常識という状況を生む最大のネックとなるのである。

そういう意味で、介護とは、私がして欲しいことと、私が望むこと、そして私が嫌なこととは何なのか、それが他人の感情と違う部分があるのかをごく常識的に考えて「嫌なことをしない」ところから出発するのではないだろうか。