介護の現場では「受容する」という言葉がよく聞かれる。認知症の方の支援には受容的態度が必要だ、という形で使われることがしばしばある。しかし言葉として、これほど数多く使われているのに、実際に、その言葉の意味を自分の具体的行動と結びつけて語られることは非常に少ない。

時には「受容しろ」と言っている側の態度が受容的でない場合もある。言っているほうも、言われているほうも双方意味を理解せずに使っている場合も多い。

そもそも人の行動や行為を「あるがままに受け入れる」ということが社会福祉援助の専門家とはいえ、様々な価値観を持つ別な個人に可能なのであろうか。「受けとめる」「受容する」とはどういう意味であろうか。

おそらくバイスティックの7原則が示された後も、この概念は様々に議論されてきたことと思う。神ならざる我々にとっては完全なる定義を示すことができない領域であるかもしれない。

ただ、我々が利用者に対して、支援者として向かい合うときに、それをどう考えるか、という点に絞ると、ある基本姿勢が見えてくるのではないだろうか。そのことを少し考えてみたい。

認知症高齢者の周辺症状に、暴力や暴言など、反社会的行為が伴うものがある。我々はそのとき、その行動を認知症という状況が引き起こす行動であり、周辺症状は、中核症状がもたらす不自由のために、日常生活のなかで困惑し、不安と混乱の果てにつくられた症状と考え、暮らしのなかで、つまり、ケアによって必ず治る。よくなる。という理解のもと支援活動を行なっている。

これを彼らのパーソナリティとして考え「性格が悪いから仕方がない」と考えるのでは支援行為には結びつかない。我々はあくまで社会福祉援助者であり、評論家や裁判官ではないのである。

つまり、利用者の行動や態度を受容するとは、利用者を理解すること、把握すること、認識することで、援助ができる関係に結びつける行為であろう。そこには、どんな利用者であっても人間として敬意を払ったり、愛されたりすることが必要であるという意味が含まれる。

つまり不愉快な態度や振る舞いがあるとしても、それを利用者の「一部分である」として捉え、あるいは利用者の持っている可能性を捉えることであろう。

援助者が「こうあってほしいと」と望んだり、こうあるべきと考えるのではなく、実際のあるがままの利用者の姿を理解する、ということだろう。しかしその前提には我々の自己覚知が必要で、自分の感情がどう揺れやすいか等を意識することが重要となることは言うまでもない(参照:「面接の技法2〜自己覚知について」)

ただし間違ってはいけないことは、受容と許容は別物であるという理解であろう。

利用者の逸脱した行動や態度、その主張や行動をあるがままに受け止めるという意味は、決してその逸脱に同調して、媚を売り、それを許容するということではないということである。

彼らの行動を真実ないし良いものとして許容するのではなく、彼らを受け止める際に、そのような行動を彼らの現実の一部として認識し、理解することで、その行動が何に基づいているかを理解することにつながり、変容可能性が見出せるというものだろう。

このとき利用者の行動を許容しないということと、見下して敬意を失う感情を同一視すると問題は複雑化する。誰もが持っている尊厳と価値を尊重するという基本がないと援助活動にはならない。この感情を的確にコントロールするのが自己覚知である。そういう意味で、受容と自己覚知は切り離して考えられないのだ。

利用者の否定的態度も彼らの問題を構成している1要素なのである。だから支援の過程ではそれらの態度も表明され、明確化され、整理される必要があるということだ。そして受け止めるものは現実であるということを忘れてはならず、援助者の勝手な想像で非現実を作り出してはならない。

ただこの受容を間違って理解すると利用者の不安をより強くする場合がある。「誰かが私を襲ってくる」という利用者に対する受容は「〜さんを誰かが襲ってくるんですね」という理解ではいけない。「〜さんは、誰かが襲ってくる、と感じるような不安な状況にずっと置かれているんですね」という理解的態度で臨まねばならないという意味ではないだろうか。

ケースワークの原則は使い物にならない古い理論だと主張する人がいるが、原理原則がどうあろうと、我々が介護の現場で、利用者と向かい合うとき、専門家として以上に、人として、支援を求める人に真摯に対応する過程で「受け止める」という理解の態度は普遍的に必要なことだろうと思う。

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