介護保険制度の理念に掲げられている「自立支援」。新予防給付の創設理由にもこの言葉が最大のキーワードにされた。では自立支援とはなんだろうか。

ある障害者の方の「私は一人では着替えも出来ないし、排泄も食事も出来ない、すべて人の手を借りないと生活できないが、それでも自立している。なぜなら、10分間人の手を借りれば着替えが出来、20分人の手を借りれば食事が出来る。人の手を借りなくて良い時間は自分でパソコンを使って執筆活動が出来る。だから自立している」という言葉は以前にもこのブログで紹介した。

自立とは生活作りなのだ。機能維持や機能改善だけではないのである。

筋力アップトレーニングを重視するだけの「自立」の考え方では生活の質は良くならない。むしろ体力測定で成果がない対象者を「問題あり」としてしまう恐れさえある。
どういう生活が出来るか、そのためには何が必要かということが自立の視点ではないか。

しかし今、国が示しているグランドデザインは新予防給付の考え方に顕著に現れているように、医療の方法論としてのリハビリテーションが前面に出されたものだ。社会福祉援助技術としての歴史からいえば生活モデルの方法論にとって替わられたはずの医療モデルへの回帰である。

これでは暮らしは良くならないだろう。

筋トレの効果をすべて否定するわけではないが、生活支援の視点のない体力の維持効果だけを過大視する現状では、その効果は一時的なもので、いずれ加齢に伴う体力低下や身体機能の衰えという諸問題と人は向き合わねばならないという問題から顔を背けた方法論に偏りすぎている。

今の新予防給付における自立支援の考え方では、高齢者や障害者のモチベーションには繋がらないし、むしろ「効果が期待できない対象者」というカテゴリーを創りだし、そのことが社会全体に「内なる差別」を生み出し、この国の将来にとっての「負の遺産」を作ってしまう結果になる恐れがある。

ケアマネジメントの援助技術の展開の目的が生活の全体性や継続性、個別性に目を向ける生活支援であるとしたら、そこには身体機能レベルだけでは解決できない様々な問題に対する援助の方法があってしかるべきで、必ずしも軽介護者に身体介護以外の生活支援が必要ではないという考えにはならない。家事援助(生活援助)も立派な生活支援になり得る。

というよりむしろ高齢者の自立生活は家事から崩れてゆくのだから「家事援助は高齢者の自立的な生活を維持促進する」というケースを現場の介護支援専門員やサービス担当者は、この5年間の実践の中で数多く経験している。

特に加齢という自然摂理を起因とした廃用とはいえない足腰の衰え、視覚や聴覚、味覚の減退は、ADLより、IADLの障害になって現れてくるのは当然で、軽介護者に必要な家事支援を適切に結びつけることは生活維持には重要な視点である。

ところがこの家事援助が過剰支援であるとして問題になり、その原因をケアマネジメントの質に求めた結果が、予防サービスの計画主体は介護支援専門員ではなく包括支援センターの保健師等に役割を変えた、という新たな制度ルールを生んだ。しかしそれは大きな間違いだ。

その根本原因は、サービス提供主体とサービスを組み込む主体である介護支援専門員をパックで運用することが「利益率」に繋がるという介護保険制度そのものの設計にあるのだ。

これを変えれば、大きな変化があるはずなんだが、制度改正の方向は予防マネジメントの新規導入という方法を選択している。

つまりこの意味は、ケアマネジメントは本来、サービスの利用者の立場からの生活を支援するために形成されてきたものであるのに、保険給付の限定化により財源抑制の手段として使うという『マネイジドケア』に使われているという意味だ。

このことはもともとケアマネジメントの諸刃の剣として負の指摘を受けている点であり、非常に危惧される点だ。ケアマネジメントの目的外使用、といったところか。

ただその結果は、包括支援センターも民間委託が多い現況で、サービス提供主体と完全な独立主体とはなっていない現状が変わっていないのだから、大きな状況変化は期待できないといえるだろう。

地域で本当にまじめに、そして懸命に援助技術を展開している多くの介護支援専門員の皆さんは、こんなわかっていない国の議論を気にする必要はない。

しかし一方、へたくそな技術や、浅い知識は利用者の不利益になるだけでなく、介護支援専門員自らの首を絞めるものであるという自覚も必要なのだろう。
少なくとも利用者や地域に対して、ケアマネジメントとは何ぞや、という意味を、自らの実践で語れる介護支援専門員であってほしいと思う。

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