(一昨日、昨日からの続き)
認知症高齢者のケアを考える場合、我々の「関わり方」によって認知症の方の行動変容が必ずあるということを根拠とともに理解する必要がある。その中で、認知症の中核症状と周辺症状の違いを理解し、その中でケアの及ぶ範囲と及ばない範囲を理解する必要がある。

認知症の研修の企画をするならこの視点は欠かせないし、その視点がない研修は現場で参考となる研修内容にはならない。

ケアの及ばない範囲とは、中核症状の器質障害、つまりアルツハイマー型や脳血管性の見当識障害や記憶障害、ピック病の反社会的行為などであり、これに対し、ケアが及ぶ範囲とは、中核症状である障害が廃用により進行することと、(徘徊や暴言等の)周辺症状の全てである。

少なくとも周辺症状(我々からみた問題行動)はケアで改善する可能性があるのだ。

そのための関り方をどう考え、具体的に何をすべきかわかりやすく伝えられる講師や内容が求められている。認知症の原因や症状を聞いて終わったってしょうがないのである。

「重度の認知症の方の対応がわからない」という人たちは実は軽度の認知症にも適切に対応できていないのだ。ただ適切に対応できていなくても軽度の方々は混乱行動が激しくないから「軽度」と見られているのであり、適切に対応した結果が現れなくても、その「介護者」にとってさほど大きな問題と感じないだけの話である。

しかし介護者の大きな負担にならなくとも混乱症状である周辺症状を理解して対応してくれない認知症高齢者自身は、いつまでも不安と混乱を抱えたまま過ごさねばならないという意味だ。やがてそれらの方が不安行動を悪化させて「重度の認知症高齢者が多くなって困っている」と言われるのである。

対応困難と呼ばれる行動は、実は認知症が重度だから困難行動となっているんではなく、中核症状がもたらす不自由のための日常生活の中で困惑して生ずる不安と混乱がそれだけ大きいから、激しい行動になっているということでだ。

それは急に出現するというより、様々な本人にとっての危機による混乱が積み重なって現れる周辺行動が周囲の受け入れがたいほど激しくなっているという意味で、そうなる過程において必ずといってよいほど、問題となる周囲の対応がある。認知症の無理解による軽蔑や差別、暴力等である。

かつて書いたブログ「過去に向かって歩き続ける人々」の中でその具体例を僕は次のように挙げている。

例えばものをなくして見つけられない自分、そして失くすことを他者からなじられたり、怒られたりする自分であるかもしれない。物を無くしたことを忘れる自分は信じられないから「盗られた」というのであり、これを単なる「盗られ妄想」なんていって欲しくない。

おしっこを漏らしてしまう自分を受け入れられないことで、徘徊行動に結びつく高齢者も多い。
おしっこを漏らす自分は自分自信ではないと思う。だから「あいつ寝ているまに水をかけた」とか「人におしっこをかけられた」というんだ。これだって妄想ではない。自尊心の叫びなのだ。
このとき失禁する自分を受け入れられない高齢者の前で、介護者が失禁をなじるとしたら、これは居たたまれない気持ちになるのは想像に難くない。


こうした行動は多くの場合、初期段階の適切な対応で防ぐことができる。激しい混乱に対しても
介護者や周りの人々が、その混乱の意味や原因を共感的に理解して、受容的態度で対応することで、軽減できたり消失したりする。

つまりは相手の立場に立って行動を理解し受容するという介護の基本姿勢そのものが実際のケアの現場で守られているか否かという検証が必要なのだ。

そもそも認知症高齢者のケアは苦手だけど、認知症のない高齢者には非常に優れたケアを行うことができる施設なんてあり得ない。その逆もしかり。認知症高齢者の方々のケアだとて通常のケアサービスの延長線上に位置するものだ。本当に日ごろから高齢者の尊厳や暮らしを守るケアを行えているのかということが問われている。

ただ勘違いしてはいけないのは、優れた講師が、講義の質疑応答で「徘徊行動を緩和させることはどうしたらよいですか」という質問に確実な処方は出せない、ということである。それは一般論ではなく、個別の利用者の視点が必要だし、貴方が今までその方にどのように関わっているんですか、ということがわからないと答えられないのである。

しかし一つ確実なことは「認知症高齢者のケアだからといって特別なことは何もない」 ということだ。

そうすると認知症高齢者のケアに対する研修では、介護サービスの本質を認知症の方々へのケアと関連して語ることができる講師でなければ務まらない、という意味だ。

認知症の原因や行動をいくらレクチャーしたところで、必要な対応の根拠となる「人間理解」を語らねば意味がないし現場で役立たない。

介護・福祉情報掲示板(表板)