父の死に際して、このブログや掲示板にたくさんの皆様から励ましの言葉や、お悔やみの言葉ををいただきましたことを、この場を借りて感謝いたします。

また、忙しいなか、遠くまでマイクロバスを出して掛けつけてくださった職場の皆さんや、関連グループの皆さんにも大変感謝しております。

さらにグループホームの外部評価や認定審査会を変わっていただいた委員の皆さん、ヘルパー養成講座の授業を替わって頂いた先生方にも大変ご迷惑をおかけいたしました。

明日、初七日を終えますので、来週からは、通常業務に戻りますので、宜しくお願いします。

今回、母に父の思い出を色々聞いてみると、僕は父のことをなにも知らなかったのがよくわかりました。

海軍工廠の養成所から横須賀海軍工廠に入り地質の分析官として勤務していたことも知りませんでしたし、終戦後に三菱に勤務し北海道の田舎の鉱山に赴任した後も、東京の大手企業から誘いがあったのに頑として転職を拒んだことも知りませんでした。

その時、母は、二人の息子の将来を考えたとき、北海道より中央で暮らすほうが教育その他には良いと考え、随分、説得したらしいですが、息子より自分の両親や家族のこと(父は長男で他の6人兄弟を持つ家庭の大黒柱でした)を考えて結論を曲げなかったようです。

僕や弟には優しい父親というイメージしかありませんが、母には頑固で亭主関白の夫であったようで、僕と弟が子供の頃、月1回必ず名寄市まで遊びに連れて行ってもらっていたのですが、その際には、母親が自分の買い物をすることさえ許さず、子供の為だけに時間を使うことを強いたそうです。

物心ついて高校に入学するまで、父は会社を離れ、労働組合の専従職員で組合の書記長として他の同級生の父親とは随分違う仕事をしていたという印象があります。下川町の教育委員をしていたなんて全然知りませんでした。馬鹿な息子です。

僕の上には生まれてすぐ亡くなった姉がいたのですが、その後、女の子に恵まれなかった父は、二人の息子の嫁を大事にしてくれました。

近くに暮らしていない兄に対し、弟も山形で仕事をしていましたが、今年、転勤ねがいが認められこの9月に実家で両親と同居してくれるようになった矢先の急変でした。

ただ弟夫妻と一緒に暮らせた期間が短いながらもあったことがせめてもの救いです。

弟の妻が、実の娘のように父や母と接してくれて、倒れた日も、父がドライブに行きたいと言うことで、連れて行ってくれて、三笠市の湖を見て、帰りに大型デパートで買い物中に倒れたのですが、幸せだったと思います。

下川鉱山の閉山後、四国で原子力の研究所の仕事に関わった後、千歳市の三菱マテリアルの立ち上げに関わって、定年後も、同社から引きとめられたにも関わらず、60を超えたら引退して後進に道を譲るという考え方を頑として曲げず、身を引いた父ですが、最後まで「潔く」逝きました。

すこしかっこ良すぎます。

月曜からまた通常にもどった形で、このブログも書いていこうと思います。