今日の新聞で「長寿番付を廃止」という見出しを見たとき、最初は「長者番付」のことかと勘違いしてしまった。しかしあれは、もう廃止されているか。

それほど敬老の日を前後に発表される「長寿番付」が廃止されるという意味自体がわからなかった。

個人情報保護法の影響もあり氏名を公表しないでほしいという希望者が多くなったことが理由のひとつとされているが、時代は変わったものである。

長生きというのは、多くの方の願いであり、長寿番付に名前が載る、ということは高齢者の方々にとって「名誉」なことであるという単純な考え方は通用しなくなったのか。何か寂しい思いを感じるのは僕だけだろうか?

長寿番付に氏名を掲載することを拒む方々の理由は何なのだろうか。個人的には非常に興味があるところだ。

しかしその意味をもっと奥深く考えると、「長生き」そのものに価値を見つけられない人々が増えていることを意味しているのかもしれない。

身内の介護に疲れて親や配偶者に手をかけたり、自ら死を選ばざるを得ないような 事件が日本中のあちらこちらで毎年のように起こっている。それらの状況を見たとき、元気な高齢者も「長生きすることが必ずしも喜ぶべきことではないな」と感じることも、あながち的外れな感覚とは言えないかもしれない。

加えて、将来のこの国の社会情勢を考えたとき、年金をはじめとした社会保障費は削られ、税金の控除は減り、医療費負担や介護に係る自己責任といわれる費用はますます増やされる。

病気にも安心してなれない(言い方がおかしいか?)患者不在の医療制度改革も進行している。

長寿番付に氏名掲載されることを拒む人々が増えているという意味は、安心して長生きすることができる国とはいえないことを国民全体が敏感に感じ取っている証拠かもしれない。

長寿番付のあった時代と、なくなる時代が、どちらが幸せな国家なのだろう。
いずれ歴史がその判断を下す。

しかし僕たち福祉現場に携わるものは、少なくとも僕たちが係っている高齢者の方々が「長生き・長寿」を自慢できない状況にしてはならないと思う。 長寿が喜びであることを実感できるケアサービスを追及する義務と責任が常に課せられている。

そのことだけは忘れてはいけないし、施設長、ここの施設の長寿番付を作って、といわれるようでなければならないかもしれない。

しかし長寿番付廃止の本当の理由が事務負担軽減ではないだろうな?

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