当施設に外部の施設から研修に来られた方から質問を受けた中に次のようなものがある。

その方は医療機関で長く働いていたのだが、老人福祉施設での利用者のサービスに対する疑問として「医療機関では、患者さんが出来ることはできるだけ自分で行ってもらうのが当たり前だが、施設ではあまりに利用者の希望にすべて対応して、できることまで職員が行ってしまうのに疑問を持っている」と言うのだ。

皆さんは、こうした問いかけにどう答えるんだろうか。

当たり前の、教科書どおりの答を示すとすれば「医療機関でも、施設でも基本は同じです。利用者の希望とは、即ちニーズではありません。やってほしいという希望であっても、自分で行うことで機能が維持できたりすることの重要性を説明したり、自立することの大切さを説明して、できることは、できるだけ自分で行ってもらうことが大事です」

というような答えになるだろうか?

ひぬくれ者の僕は、こういう建前?的な答では自分自身が納得しないので、他者に対してもそういう言い方はしない。

僕はこう答える。

ある行為について、介護者が行う行為か、利用者本人がご自分で行ってもらう行為か、これを2者択一でしか考えないこと自体がナンセンス。確かに自立支援の視点や、完全にできる行為を安易に代行することで能力を奪わないという視点は重要だけれども、それだけがすべてではない〜ということだ。

人の生活とは一定の基準で判断できるものではなく、その時々の状況や気分で「揺れ動く」ものなのである。一律の線引きで答が出せるものではなく、そのときの利用者の顔を見て、声を聞いて、声なき声にも耳を傾けて、はじめて理解できることがある。

ケアカンファレンスで決めたケアプランは、ある一定の視点であり、判断の目安であり、各職種間の共通言語ではあるが、それに縛られて利用者のサービスに応変の処置を欠いてはならない。

自分で出来ることも、やれない状態のときもあるんだ。やりたくないという気持ちを支援してほしいときもある。そこに心を配れるか、配れないかが介護者の資質だろうと思う。

我々は、利用者の生活全般というより全人生に係っているんだから、我慢して頑張る、一生懸命頑張らないと「良い生活」が作れないなんていう変な「生活」を作ってはダメなんだ。

入院生活のように治療という目的があり、退院というゴールがある場所とは違うのだ。

毎日頑張らないと、一生懸命自立しないと「正しい生活スタイルではない」という場所で人は生きていけない。

今、我々の前にいる利用者が、自分で行えると思われる行為を、なぜ人に頼るのか、そのことの意味を、単に「自立支援」というひとつのキーワードで考えるのではなく、その方々の生き様や状況から広く考えてみる必要がある。

さっき出来たことが今出来なくたって、明日またできれば問題はない。

私が代行したら機能が衰えますよ、とか、動けなくなるよ、というプレッシャーを与え続ける生活のほうがよっぽど問題だ。安易な行為代行ではなく必要な支援として何を行うべきか考えると、あるときは本人が出来ることでも替わって行ってあげますよ、ということがあったって良い。

それより会いたい人が周りにいて、そこに出向き、いつも笑いがある生活を作ることのほうがよっぽど自立支援には有効だ。

ケアプランの文言だけで人間の生活なんて作り出せない。

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