僕が連載しているある冊子で、施設ケアマネジメントの特集が掲載されており、いくつかの論文が載せられている。
勉強になる視点もあるが、まったく意見を異にする論文もある。
それは悪いことではなく、当然であろう。いろいろな意見があるから議論となり、その中からあるべき方向が見出せる、という部分もあるのだ。
ただ、どうしても相容れない意見というものがある。
例えば、施設のケアプランとは何かということに触れている論文の中で「ケアプランは何のために作成するかといえば、それは利用者の自立支援のためである」「ケアマネジメントはケアプランを動かす、つまりケアプランに沿ったケアが利用者に届き、利用者が変化していく過程である」としているような意見は僕の考え方とはかなり違う。
施設ケアプラン(あるいは施設ケアマネジメント)= 自立支援 = 利用者が変化する過程という構図に異議がある、という意味である。
ケアプランは自立支援のためのみにあるのではなく、生活支援のためにあるのだと思う。
生活支援とは様々な要素があり、その要素の中に「自立支援」というピースもあるというだけの話であり、自立支援だけがケアプランと勘違いされては困る。
事実としても、例えば「看取りの介護計画」の内容は、安楽な日々を送ることができることに視点を置いた生活支援の具体的方法を示す例が多いだろう。そこには利用者の変化を求めるより、安定した状態を持続するためのケアが求められてくる。
看取りでなくとも、重度の障害を持つ方々のプランにおいては、変化より、維持や機能低下のスローダウンに主眼を置いたプランもあり得る。
自立と変化だけに主眼を置いてしまえば上昇曲線からはずれた過程をたどるケースを問題ケースとしてみてしまうような新たな「スティグマ」を産む。
人の生活というものは、肉体の変化、衰えと付き合って行くということを意味している。できなくなることがあるのは当然なのだ。できないことをできるようにするだけがケアプランではない。できないことがあっても、できることを継続できるように支援することも大切だし、できることが減ってきたとき、その代わりの手足としてお手伝いすることで「生活」が快適なものになるという時期や課程もあるのだ。
そもそも施設サービスとは何か。それは地域福祉の両輪のひとつであり、もうひとつの車輪は居宅サービスで、両者とも必要不可欠な地域福祉サービスで、施設サービスが居宅サービスに劣っているものではなく、在宅で頑張っている方が、頑張りきればくなったっときにも「施設」というセーフティネットがある、という意味があり、そこでの生活が必要な介護において支えられることは重要だ。
頑張ることは大切だけど、人間は頑張れない状態になるときがいつかくる、そんなときでも施設職員は替わって、利用者の安楽な生活を支える援助をするんだ。時には頑張らないで、人に任せる部分があってもいい、今まで何十年も頑張っているんだから、ちょっと休んだっていいときがあるよう思う。前に進むだけが人のあるべき姿じゃない。
自立は大切なピースだけど、自立できないことを否定してはいけない。
ケアプランは決して「自立支援」に限定して考えられるべきではない。
介護・福祉情報掲示板(表板)
勉強になる視点もあるが、まったく意見を異にする論文もある。
それは悪いことではなく、当然であろう。いろいろな意見があるから議論となり、その中からあるべき方向が見出せる、という部分もあるのだ。
ただ、どうしても相容れない意見というものがある。
例えば、施設のケアプランとは何かということに触れている論文の中で「ケアプランは何のために作成するかといえば、それは利用者の自立支援のためである」「ケアマネジメントはケアプランを動かす、つまりケアプランに沿ったケアが利用者に届き、利用者が変化していく過程である」としているような意見は僕の考え方とはかなり違う。
施設ケアプラン(あるいは施設ケアマネジメント)= 自立支援 = 利用者が変化する過程という構図に異議がある、という意味である。
ケアプランは自立支援のためのみにあるのではなく、生活支援のためにあるのだと思う。
生活支援とは様々な要素があり、その要素の中に「自立支援」というピースもあるというだけの話であり、自立支援だけがケアプランと勘違いされては困る。
事実としても、例えば「看取りの介護計画」の内容は、安楽な日々を送ることができることに視点を置いた生活支援の具体的方法を示す例が多いだろう。そこには利用者の変化を求めるより、安定した状態を持続するためのケアが求められてくる。
看取りでなくとも、重度の障害を持つ方々のプランにおいては、変化より、維持や機能低下のスローダウンに主眼を置いたプランもあり得る。
自立と変化だけに主眼を置いてしまえば上昇曲線からはずれた過程をたどるケースを問題ケースとしてみてしまうような新たな「スティグマ」を産む。
人の生活というものは、肉体の変化、衰えと付き合って行くということを意味している。できなくなることがあるのは当然なのだ。できないことをできるようにするだけがケアプランではない。できないことがあっても、できることを継続できるように支援することも大切だし、できることが減ってきたとき、その代わりの手足としてお手伝いすることで「生活」が快適なものになるという時期や課程もあるのだ。
そもそも施設サービスとは何か。それは地域福祉の両輪のひとつであり、もうひとつの車輪は居宅サービスで、両者とも必要不可欠な地域福祉サービスで、施設サービスが居宅サービスに劣っているものではなく、在宅で頑張っている方が、頑張りきればくなったっときにも「施設」というセーフティネットがある、という意味があり、そこでの生活が必要な介護において支えられることは重要だ。
頑張ることは大切だけど、人間は頑張れない状態になるときがいつかくる、そんなときでも施設職員は替わって、利用者の安楽な生活を支える援助をするんだ。時には頑張らないで、人に任せる部分があってもいい、今まで何十年も頑張っているんだから、ちょっと休んだっていいときがあるよう思う。前に進むだけが人のあるべき姿じゃない。
自立は大切なピースだけど、自立できないことを否定してはいけない。
ケアプランは決して「自立支援」に限定して考えられるべきではない。
介護・福祉情報掲示板(表板)
私は実習以外の現場を知らない、社会福祉士です。教科書や、講義、雑誌を見ても、「自立支援」の言葉がキーワードであるように学び、疑っていませんでした。
ケアマネジメントに限らない、支援において、もっと受容や共感の気持ちを優先できなければならないと気づかされました。
実習先の指導者の「臨床が大切」という言葉を思い出しました。