今日は午前中、久しぶりに「回想法」を行った。
火曜の午前中に予定している定番の「遊びリテーション」の指導者が休暇をとったため代行というわけである。
当施設では、火曜と金曜の午後からは療育音楽などというように、予定があらかじめ組まれた集団活動がある。
といえば脱集団処遇を叫ぶ輩からはいかにも「大規模施設における集団的サービス」として批判を受けるであろう。
しかし集団処遇と集団活動としてのグループワークは本来異なるもので、グループワークをすべて否定するのは、いかがなものかと思う。
個別ケアの中にも有効なグループワークを組み込んでサービス提供をしても良いと思っている。
要は、その活動に参加するか、しないかを利用者本人の希望やニーズによって決定できるという、「参加しない権利」が保障されていることと、別の活動に参加する「選択権」があれば良いのだ。
集団的な回想法や療育音楽を否定する人は、一度、私たちが行っているそれらの活動に参加している認知症の方々の表情を見てほしい。
日曜からショート利用している認知症の方で、1日中歩き回って、ひとつの場所にとどまることのない方が、約50分、活動に参加して、いきいきとした表情で過ごしている。
自発動作や、発語が減少している高齢の認知症の方が、経木に包まれた納豆をみて昔の話を大きな声で話し出したり、納豆売りの話に花が咲いたり、毎日炭を熾して煮炊きしていた苦労を懐かしげに話し合ったり、効果がどうのこうの言う以前に、皆で楽しく時間を共有している意味を考えれば無駄な時間でもないし、集団的ケアという批判もあたらない。大切な時間だ。
それは療法ではなく、生活の一部である。特別なことではない。
思えば我が施設で曜日により異なる定番レクリエーションメニューを行うようになったきっかけは、以前、入浴日が固定していたことによる。
今では、毎日入浴ができる体制になっているが、つい数年前まで入浴日は週の2日しかなく、その日に全員の入浴を行っていた。当然、ショート利用者は、その入浴日に利用日が該当しないと入浴をせずに利用終了というケースもあったわけである。
現在では毎日が入浴日だから、その中で希望の日に入ればよいし、ショート利用者も入浴ができないということはあり得ず、毎日入浴する利用者もいる。
話がそれた。
さて入浴日が固定されていた当時、入浴日は介護職員は入浴介助だけで1日が終わるような状態であった。すると職員は「入浴介助」という行為で忙しい日かもしれないが、利用者からすれば、自分が入浴している時間はわずか30分にも満たないが、職員が忙しそうにしているので必要な介助を遠慮して訴えなかったり、入浴以外の時間を過ごす「暇」を持て余す、という状態があった。
そこで入浴日にも、皆が入浴に専従しないで、利用者が楽しめるサービスに係わる職員を作ろうということで、レク担当者といういのを日替わりで決め、担当者は一定時間、入浴等の介助に係わらず、自分で様々なメニューを考え、利用者と「共に過ごす」という形に変えたことがきっかけで始まった。それが、いつか定番のレクメニューと代わっていったものだ。
だから今のサービスの形も、どんどん変化していくだろうし、変化しなければ、利用者の多様なニーズに応えていくことにはならないという側面もある。
なんでも固定的、保守的な考えに偏っては成長しない。
介護・福祉情報掲示板(表板)
火曜の午前中に予定している定番の「遊びリテーション」の指導者が休暇をとったため代行というわけである。
当施設では、火曜と金曜の午後からは療育音楽などというように、予定があらかじめ組まれた集団活動がある。
といえば脱集団処遇を叫ぶ輩からはいかにも「大規模施設における集団的サービス」として批判を受けるであろう。
しかし集団処遇と集団活動としてのグループワークは本来異なるもので、グループワークをすべて否定するのは、いかがなものかと思う。
個別ケアの中にも有効なグループワークを組み込んでサービス提供をしても良いと思っている。
要は、その活動に参加するか、しないかを利用者本人の希望やニーズによって決定できるという、「参加しない権利」が保障されていることと、別の活動に参加する「選択権」があれば良いのだ。
集団的な回想法や療育音楽を否定する人は、一度、私たちが行っているそれらの活動に参加している認知症の方々の表情を見てほしい。
日曜からショート利用している認知症の方で、1日中歩き回って、ひとつの場所にとどまることのない方が、約50分、活動に参加して、いきいきとした表情で過ごしている。
自発動作や、発語が減少している高齢の認知症の方が、経木に包まれた納豆をみて昔の話を大きな声で話し出したり、納豆売りの話に花が咲いたり、毎日炭を熾して煮炊きしていた苦労を懐かしげに話し合ったり、効果がどうのこうの言う以前に、皆で楽しく時間を共有している意味を考えれば無駄な時間でもないし、集団的ケアという批判もあたらない。大切な時間だ。
それは療法ではなく、生活の一部である。特別なことではない。
思えば我が施設で曜日により異なる定番レクリエーションメニューを行うようになったきっかけは、以前、入浴日が固定していたことによる。
今では、毎日入浴ができる体制になっているが、つい数年前まで入浴日は週の2日しかなく、その日に全員の入浴を行っていた。当然、ショート利用者は、その入浴日に利用日が該当しないと入浴をせずに利用終了というケースもあったわけである。
現在では毎日が入浴日だから、その中で希望の日に入ればよいし、ショート利用者も入浴ができないということはあり得ず、毎日入浴する利用者もいる。
話がそれた。
さて入浴日が固定されていた当時、入浴日は介護職員は入浴介助だけで1日が終わるような状態であった。すると職員は「入浴介助」という行為で忙しい日かもしれないが、利用者からすれば、自分が入浴している時間はわずか30分にも満たないが、職員が忙しそうにしているので必要な介助を遠慮して訴えなかったり、入浴以外の時間を過ごす「暇」を持て余す、という状態があった。
そこで入浴日にも、皆が入浴に専従しないで、利用者が楽しめるサービスに係わる職員を作ろうということで、レク担当者といういのを日替わりで決め、担当者は一定時間、入浴等の介助に係わらず、自分で様々なメニューを考え、利用者と「共に過ごす」という形に変えたことがきっかけで始まった。それが、いつか定番のレクメニューと代わっていったものだ。
だから今のサービスの形も、どんどん変化していくだろうし、変化しなければ、利用者の多様なニーズに応えていくことにはならないという側面もある。
なんでも固定的、保守的な考えに偏っては成長しない。
介護・福祉情報掲示板(表板)