つい最近問題となったニュースであるが、富山県の医療機関で医師が7人の患者の呼吸器を外して、死に繋がったことが大きく報道された時期がある。その後の経緯について僕は詳しくないが、大きな事件として取り上げられていないところを見ると、家族に対し説明同意をとっての尊厳死として認められる流れとなっているのであろうか?

このニュースを聞いたとき、最初に考えたことは、呼吸器を外したことは事件に繋がるケースとして大きな問題になるが、仮に同じような状態の方が何かの理由で最初から呼吸器を取り付ける救命処置がとられなかった場合は、このような大きな問題になっただろうか、という疑問である。

救急救命の体制がない地域だってたくさんあるだろうから、救命処置が行われず貴重な命が失われる、ということがまったくないとは思えない。

救命と延命に、その必要性や意味の違いはあるのだろうか。

富山の問題にしても、救命に必要であった呼吸器の装着が、いつの時期から尊厳死が問われる延命行為と変わっていったのか誰も明確な答を出すことはできないだろう。

仮に救命後に著しい脳障害が発覚し、意識がまったくなく、呼吸器で命を繋げている状態であることがその方自身にとって「人間として尊厳が問われる」として「死」を選択したほうが良い、という答になるのか、僕には自信がない。

だから尊厳死の問題は非常に複雑で難しい問題だと思う。少なくとも僕自身は答がみつけられない。

施設で行うターミナルケアにしても、医師が医学的見地から回復の見込みがない、と判断することが絶対条件であり、施設や家族が死の選択へ誘導することは許されないし、あり得ない。

ただ難しいのは、医療機関に入院するか施設で看取るか、という選択の判断の一部分に、尊厳を損なうような不必要な延命治療を行うか否か、という判断が必要な場合である。何をもって不必要で過剰な延命治療というのか、誰にも答は出せない。

生命が維持できる可能性があるなら、まずそちらを選択することが基本として考えられなければならないし、その前提には「命の尊さ」を思う視点が必要だし、生きていること自体が素晴らしいことだ、という前提がなければならないだろう。

しかし「延命の為だけに体中、管だらけになるのは嫌だ」という対象者自身の気持ちは充分わかる。あるいは、将来的にターミナルケアを実践していく過程で、この問題は大きくとリ挙げられていくかもしれない。

全国の施設の中では、意識レベルがかなり低く、経管栄養や点滴で生命を維持している方が数多くいるだろう。しかしそれを人間として尊厳のない状態というのは間違いだ。生きていることそのものに尊厳を求め、それを守る対応が必要だ。

ターミナルケアに係わる施設のみならず、人の生活支援に係わる人々は、いつか人に訪れるであろう「死」に対し、どう向かい合うのか、それ以前に、生命の尊さをいかに考え、真摯にそれを思うのか、それが重要である。

どうも今日は問題が複雑すぎて文章の内容も構成もめちゃめちゃであるし、論旨も不明瞭で結論も出せない。ただ言えることはターミナルケアを行うという前提には生命の尊さを思う心を忘れない、ということだろうと思う。

※明日から2日間、老施協の研修可の為、札幌にいます。ブログは週末は書く時間がないでしょう。月曜か日曜に、何かあったら報告としてブログに書くことがあるかもしれません。

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